月の夜にて<改稿>
 イク・アルスヴァートンは、照りつける月の皓りに身を焦がしながら、持参したステンレスボトルから、これまた持参した素焼きの猪口に、つつぃと、冷気の浸みるキンとよく冷えた清酒を注ぐ。
 公園のベンチ。
 背にした神社の杜が夜風にざわぁわと音を立てて揺れる。正面には、遮る物なく永遠無限と思われるほどの夜が広がる。坂の斜面に点点と広がる人の暮らしの灯り、覆い尽くす星空、皓々と照らす月。
 夜風がそよぐ。夏の近い幾らか蒸した夜気を払う、樹々の月影をすり抜けて吹き抜ける涼やかな微風が。
 差し向かうのは、年端もいかない少女。ゆるりと微笑って猪口を受け取る。
 フリルやレース飾りのヒラヒラがたくさん付いた古風な少女趣味(ロリータファッション)らしいワンピースドレスに闇色以外の色はなく、透けるような肌の白さ、無関心を装う好奇心を湛える紅褐色の瞳、そして濡れる唇の朱さをばかり引き立てる。
 アグネスタ。
 月の気紛れな慈愛と無慈悲。人が本能的に抱く夜への畏怖と共に語られるその名。この街の夜を統べる女王たる彼女(アグネスタ)。その見た目の可憐で儚げな印象と、生まれてより経てきた年月の驚くべき乖離を、イクは良く良くわきまえていた。
 夜の徘徊者、あるいは月の従僕、月夜の囚人、不惑の人、不老者――、様々に呼ばれる、現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)とは別の進化系統をたどった別種の人類。彼女は、現生原生人類に比べて遙かに寿命の長いその異系人類に属する。
「今宵の月を、そなた、いかに観る」
 月皓りだけを伝って通る声は、美しく澄んだ可憐な囀りのようでいて、歪に嗄れた咒歌のようでもあった。
「さて」
 イクは、猪口に口を付けくぃと傾ける。闇宙を映して波紋を浮かべる酒は、旧い旧い伝説にある甘露酒(ソーマ)のごときに口腔を芳醇な薫りで充たし、すぅぅと喉を通って、体内(うちがわ)に浸みて熱する。
「良い月だ。下端に薄い雲のかかるのは、何か心残りでもあるのかな」
「私にか。この宵闇の女王(アグネスタ)に心残りなどあろうと思うてか」
「さぁ、僕は月について語っただけだ」
「ふん、喰えぬヤツ」
 今宵は満月だ。
 満月を愛でて公園で宴を開こうと言ったのは、イクの教え子で新月高校二年生の小夜子だった。彼女を含めた三人が、イクが顧問を務める観月会のメンバーである。月が人の心に与える影響を研究しつつ、月を眺め句を詠うのを活動内容とし、一応、学校にも同好会として活動を認められている。内実は月の夜に好きな物を持ち寄ってくっちゃべってるだけなのだが。
 アグネスタと少女たちが出会ったのは、偶然の所作だった。本来交わるはずのない者たちが出会い、なぜかうち解けあってしまった。
「我といえどもな、時には真昼の太陽に照らされた風景を眺めてみたいと思うこともあるのだ」
 とアグネスタの漏らすのは、十世紀近くを生きた者の倦み疲れがもたらす感傷だったろうか。本物の昼の風景など彼女に見る術はないのだが、少女たちのたわいないおしゃべりから昼の匂いを嗅ぐことで自らを慰める。
「あまり夜に近付けすぎるべきではないと心得おるのだが、ついつい、な」
 自嘲気味に笑う。現生人類に比して長すぎるほど長い寿命と、優れた身体能力を有するはずの夜の種族にあって、姿なき影を怖れる幼子のような気弱げさが滲んでいた。
 一方で、教師としてのイクにしたところで、少女らを無為に夜に近づけたいわけではない。ただ出会ってしまったものは仕方がないという運命論的な諦めと、双方にとってそう悪いことではないのかも知れないという根拠のない期待を持っている。先のことは何も分からない。ただ、出来うる限り危険には近付けないつもりではいた。
 その彼女らが、その場になってそれぞれ都合だとかで来れないと言いだしたのだ。女子高生らしい気紛れと言えばそれまでだが、振り回される大人は苦笑を浮かべるくらいしかしようがない。
 本来気位の高く無礼を決して許さないアグネスタも、苦り顔のイクを見て、むしろ愉しんでいる風もある。
「案ずるな。私は、お前と二人でも寂しいとは思わん。少々野暮ったいヤツであるが、月を観ずる相手として最悪というほどではない」
「それは光栄に」
 少しおどけてイクが言う。
「たわけたことを」
 イクを睨めるアグネスタの口元は女王の気品を湛えながらも、やはり自嘲気味に歪んでいる。可憐な少女の美貌にもっとも似合わぬ表情といえるかもしれない。
「夜に魅入られて悦ぶのは人でなしの心根ぞ」
 酒をくぃと呷る。熱い息がほっと漏れる。
「あの者たちにも、そこはしかと心得させよ」
 夜は昼に焦がれ昼を惑わしはするものの、一層、己の夜であることを思い知らされるのかもしれない。
「遠い昔の先祖の代に人間であることを放棄しようとした家系の残党だからね、僕自身はもう、仕方ないさ」
「そうであったな」
 イクが、アグネスタの空いた杯に酒を注ぐ。
「それに、まぁ、」
 アグネスタが思い出したように、頬を緩ませる。彼女には珍しい、皮肉のない微笑みだった。
「あの者たちは、昼の者にしても珍しいほどに心の澄んだ良い娘たちだが、しかしいかにも賑やかに過ぎる。それが若さ幼さのもたらす無垢なあどけなさというものなのだろうが、我らには少し眩しすぎよう。夜にしか生きれぬ者が、真昼の太陽を覗き見るようなものだからな」
「言うことは分かるよ、あの姦しさには、ついて行けない」
「それはそなたがオヤヂ化しておるからだ。私は会話についていけぬとは言っていない」
「オヤヂで悪かったね」
 ふふっと少女らしい微笑みがわずか漏れるのは、こんな時だった。
「それに、間もなく客人も現れよう。招いた覚えのない、歓迎する気にもならぬ客ではあるが、客は客」
 アグネスタの視線を追って、イクも公園の入り口の方へ目を向ける。
 星空を、灯り一つない闇が呑み込む。
 烏――、大型の猛禽よりもなお巨大な三本足の烏。わさわさと羽ばたきを収め、鉄の遊具に降り立ち喚く――日本語で。
「緩慢な死に微睡む者は、無限の常闇へ還るが定めなり」
「普段なら気にも掛けぬところだが――」
 夏だというのに刻すらも凍えそうな冷ややかな眼差し。アグネスタは、イクに向けて言う。
「古の盟約に基づき手を貸せ、人間」
 月夜にたゆたうばかりの彼女には不似合いなほどの意思を込めた声、眼差し。
「良いのかい」
「もとより煩わされるのはご免だ。この街に流血沙汰を招くのも本意ではない。が、いずれ、避けられぬのとならば――」
「貴女がその覚悟を決めたらなら。僕に異存はない」
 イクがアグネスタの手を取り、その甲に口付けする。
「絆は結ばれた。我が血と我が精神(こころ)の半分をそなたに貸し与えよう」
 言葉の終えぬ間にもアグネスタの身体が月光のうちに霞み、二重写しにぼやけ、その一方がイクの身体に重なり、消失する。
 イクの手に、鞘のない黒い刀身が握られる。月の皓りを跳ね、瞑く、紅く、銀に輝く。
 一閃――
 巨大烏はカァとも哭かず黒い霧と消た。
 後には何も残らない。微かな悪意の残滓だけが靄のようにわだかまり、それも霧散する。
 役を終えた太刀もまた消え、アグネスタの姿が現実に戻る。
「さて、どう転ぶものやら」
 イクの言うのはまるで他人事だが、それなりに気遣わしげな響きもこもっている。
「いずれ通らねばならん道だ」
 アグネスタが黒いドレスを身仕舞い、虚空を見詰める。
「珍しく前向きだねぇ」
「馬鹿な。憂鬱でたまらんよ。旧世界の遺物たる我ら化石人類に、今さら新世代の誕生だと。お巫山戯にもほどがある。一体どこの誰が仕組んだ茶番か」
「作り物……なのか」
「他に考えられるまい。我らはとうに生殖などという行為をなす術を失っておる。機能はあっても精神がそれを望まん。さほどに、我らはいがみ合っている。憎しみ合っていると言っても良いな」
「なるほどね」
 とは言うものの、イクにその、理由のない根深い怨嗟は理解できない。
「そんなに簡単に合の子ができるなら……」
「うん?」
「煩い、なんでもない。帰る」
「勝手だなぁ」
 歩き出すアグネスタの背に、イクは聞こえぬ息を吐く。
2011年06月14日(火) 22時42分27秒 公開
■この作品の著作権はおさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
10枚イベントの練習。でも14枚。10枚の壁は厚い。ていうか、取り組み方の基本的なところが間違ってる気もしないでもないが、しいてそこは見ないふり。はやりの黒ロリ高飛車娘系。

6/16改稿。無理にも10枚に収める。なんとかなるものだ。

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No.9  山田さん  評価:30点  ■2011-07-13 21:56  ID:eA7kKRU7RgI
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 拝読しました。
 お久しぶりです。

 お久しぶり、といえばイク関連を読むのもお久しぶりです。
 前にも書きましたが(多分旧TCのほうかと)なかなかに好きなキャラクターです。
 というかこのイクって以前から登場しているイクと同一人物?
 ちょっと自信ないです。
 自信ないですが、同一人物にしておきます。
 おさんの作品を全部読んでいるわけでもないから、違っていたらすいません。

 ということで、どうも今回は短い。
 雰囲気だけが伝わってきてそれ以上でもそれ以下でもない。
 もっとアクションがほしかった。
 なんて書いていたら「雰囲気だけで勝負してますからね」などと作者さんのレスが。
 ならそれでもいいのかと納得したりしておりますです、はい。
No.8  お  評価:0点  ■2011-06-27 21:32  ID:OV.iKSSikvg
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楠山さん
うふふ。楠山さんには
褒めて貰ってばかりで、なんだか恐縮です。今後ともなにとぞよろしくです。

toriくん
まぁ、長さのきついのは分かってたことだけどね。しかし、この設定結構気に入ったんだけど。ステロタイプすぎるかな。いや、しかし、僕はやる。陳腐を恐れず。やってやるぜ。

春矢さん
おお、思わぬおほめのお言葉、感激です。雰囲気だけで勝負してますからね。感じて貰えて嬉しいです。ありがとうです。
No.7  春矢トタン  評価:40点  ■2011-06-27 03:12  ID:PQeZnCLBhFA
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かっこいいなあ、素敵な雰囲気だなあ、と思って読み進めました。
こんにちは、春矢です。

小さくて、可愛い女の子、好きです。
暗闇の中に、アグネスタの瞳と唇、光を反射する刀身のように、赤い色が浮かび上がる様子が印象的でした。
刀の描写のところ
>>イクの手に、鞘のない黒い刀身が握られる。月の皓りを跳ね、瞑く、紅く、銀に輝く。
ここが特に好きです。

暗闇の中の色って、明るい場所での色の描写よりもコントラストがはっきり見えてくるので、視覚から心を奪われてしまいます。
全然詳しく無いので、あてずっぽうなんですが、月を見ると狂気が生まれるってよく言われるのは、こういうことからなのかなあって思いました。
No.6  tori  評価:30点  ■2011-06-20 01:37  ID:nyv4PhU4HKM
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toriです。
こんちゃ、というのキャラではないですね。
と、さて、拝読しましたので感想を。

やっぱり短いのは、おさんの呼吸に合わないのかしら、というのが第一印象でした。ううん、呼吸に合わないというより、おさんの書くファンタジーの雰囲気が収まりきらないのかしら、と思いました。
設定やアクションシーンなどなどが、尺に合わせるためにステロタイプになりすぎちゃってるんじゃないのかな、というふうに思いました。もっと煮つまった感じが欲しいな、と、思いました。

と、そういう無いものねだり以外の部分では、楽しむことができました。イク、という名前にへっへへ、と思ったり、女子高生だったり、いや、やっぱり女子高生にちょっとうつつを抜かしてみたり、うん、美味しかったです。

短いですが、以上です。
No.5  楠山歳幸  評価:40点  ■2011-06-19 21:36  ID:sTN9Yl0gdCk
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 お久しぶりです。読ませていただきました。

 夜の描写がアグネスタを含めて素晴らしいです。街中の公園に一種独特の暗さまで感じました。いつもながら、おさんの世界がかっこいいです。
 「不惑の人」もかっこいい言葉でした。
 女子高生を利用?しての対比も良かったです。イクの日常まで連想しました。
 悪役ですが、僕は改稿前が良かったかなあ、と思いました。十枚必修なら、仕方ないですね。でも、セリフも生きていて、少ない枚数で、たくさんの魅力を感じました。

 失礼しました。
No.4  お  評価:--点  ■2011-06-18 19:41  ID:E6J2.hBM/gE
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ども。レスです。

>凶さん
雰囲気だけに生命張ってます。嘘です。
読めない漢字……月皓り、ですかね?
この字は好きで、あえて、けっこうよく使います。
それくらいかな。他は、まぁ、書けやしないけど読める範囲だと思いますが……。
漢字は開き気味にしようと思っていたんですが、意外に変換任せて漢字になってたりするものですね。気をつけよう。


>エンガワさん
むしろ今回、設定だけを詰め込んだ感じですね。
展開の方がむしろおまけ。
キャラもので10枚は根本的に無理がある?


>ゆうすけさん
僕も来年40だわ。初老だわ。
敵を買えたのは、枚数を減らすためです。
ただでさえ分かりにくいモノが余計わかりにくくなった気もしなくもなく。
アグネスタ、10世紀近く生きてます……て書いたとこへつってた。
もう少し詰めてみて、書けそうだったら中編にトライしかと思ってます。
ダメなら、まぁ、……いつものことか。


みなさま、どうもありがとうございました。
No.3  ゆうすけ  評価:30点  ■2011-06-17 09:33  ID:oTFI4ZinOLw
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拝読させていただきました、今年で四十、不惑の人のゆうすけです。

いつもの、おさんの描写ですね。ねっとりとした情感が素敵です。
「夜の徘徊者、あるいは月の従僕、月夜の囚人、不惑の人、不老者」
ここがいい雰囲気を醸し出していると思いました。いった何者なのか? なんとなくクトゥルーっぽい雰囲気を感じましたよ。吸血鬼のようでもあり、ここのぼかしが作品に奥行きを感じさせます。
飲酒シーンもいいですね。美味しそうです。
あれ、昨日読んだ時と敵が違う。やたがらすになっている。いきなりの戦闘、唐突に感じました。
物語に奥行きを感じながらも、窮屈な感じもあります。なるほど10枚しばりなのですね。ちょっと欲求不満です。せっかくの舞台とキャラ、充分に芳香を感じましたから、もっと味わいたいです。
イク……名前は一緒でもまったく違うキャラですね。
アグネスタ、年齢不詳ってことは実は高齢者かな。お茶目さとかドジさもあったほうが面白いかな。私の好みなだけですけど。
No.2  エンガワ  評価:30点  ■2011-06-17 00:37  ID:IS6Q0TStVxc
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重厚な展開に、説明調の硬い文体と何所と無く青い語りが、マッチしていると思いました。雰囲気があります。夜の闇が深くなっていく感じ。

ちょっと設定が設定だけで浮いていて、よく分からないような、物語に余り寄与していないように思う部分がありました。なるほど10枚縛りだから、お削りになったのかもしれません。
No.1  凶  評価:30点  ■2011-06-16 10:56  ID:H5kn4nBA6qA
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はじめまして読ませていただきました。

夜の静けさや清らかさを感じさせる雰囲気がカッコよくて引き込まれました。冷たく淡々とした調子で話が進み読んでいてゾクリとしたり。それと、僕の漢字力が低いため読めない漢字がいくつかあって恐れ入った感じです。
総レス数 9  合計 230

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