あるワニの話。
 夏が終わりに近付いていたある日、太陽が頭上に昇った頃のこと。人間が猛暑と呼ぶような暑さ、つまりワニ達にとっての快適さの中、そのワニは、屋外の水場の中にいた。このワニは、幼少の頃に人間に捕らえられ、別の施設で人間によって育てられ、つい数週間前に、この動物園へ連れられてきた。眼と鼻先だけを、汚れた水の中から出していたが、その姿勢が、自分たちの種族が獲物をとらえるための姿勢だということに、彼は自覚していない。ただ、野生動物の本能によるものだった。
 その姿勢で、その水場と僅かな陸地、背後にある宿舎、他の三方を囲む鉄柵、そしてその向こう側に広がる光景を眺めていた。柵の向こうにあるのは、数組のパラソル付きテーブルとベンチ、そしてそこに座る子供連れの三人家族だった。子供は、まだ小学生になったばかりか、幼稚園児か、とても幼い男の子だった。
 その家族は、ちょうど昼食を終えたところだった。母親は、父親と息子に、水筒のお茶をついでやり、父親は、テーブルの中央に置かれたお菓子をとろうと、両手を伸ばしている息子を眺めていた。男の子は、お菓子を取るため、からだを乗り出し、やっとのことで、一つのお菓子を手にとった。しかし、お菓子を取ったことで気の緩んだ男の子は、きちんと席につこうとしたとき、バランスを崩し、椅子から落ちそうになった。幸い、父親が男の子の片手をつかんだので、転落はまぬがれたが、もう片方の手に持っていたお菓子は、男の子の手から離れ、宙に放り出されてしまった。
 ワニは、その一部始終を見ていた。彼の視線はそのまま、男の子の手を離れたお菓子に注がれた。そのお菓子は、赤い光の軌跡を描きながら、彼の目の前の陸地へと落ちた。それは、片面にいちごジャムの塗られたクラッカーだった。赤い光は、太陽光がジャムで反射したものだった。彼はキラキラと光るクラッカーを見つめた。
 ワニの嗅覚は、他の生物に比べて発達が遅れている。嗅覚が発達するのは、主に獲物を追う生物と、獲物として追われる生物で、ワニは、獲物を待ち構える生物だからだ。だから、彼にはそのクラッカーの匂いはわからない。食べ物かどうかもわからない。そもそも、彼はクラッカーを食べるつもりがなかった。そのクラッカーを食べてしまえば、赤いきらめきが失われてしまうということが分かっていたからだ。彼は、日が暮れるまで、クラッカーを眺め続けた。太陽が宿舎の影に隠れ、辺りが暗くなり始めると、彼の目に写っていた光もまた、消えてなくなった。
 動物園の閉園時間が過ぎ、彼らは宿舎の寝室へと戻された。その日の夜も、彼は寝るまでずっと、あのきらめきのことだけを考えていた。次の日の朝、彼が再び屋外の水辺に戻された時には、水も陸地も前日より綺麗になっていた。ただ、彼が何よりも綺麗だと思っていた、あの光は、もうそこにはなかった。
 彼は、再び水の中から眼と鼻だけを出した状態で、考えた。なぜ、あの光を魅力的に思ったのか。なぜ、この透明な水のきらめきには何も感じないのか。しかし、結論はなかなか出なかった。
 あの光を見て以来、彼は、自分の暮らしに対して、一切の魅力を感じなくなった。今まで、毎日餌を与えられ、夏は太陽の照りつける中で、冬はエアコンで暖められた温室で、最低限、死なないことだけを保証された生活を送ることを享受していたのに、もはやそのことが我慢ならなかった。そうして彼は、もう一度、あの光を見たいと望むようになった。どうすれば、あの光を見ることが出来るか、彼は一生懸命考えたが、考えるための材料が少なすぎた。彼が知っていることは、あの光を放っていたものを、人間の子どもが持っていたこと、そして、太陽が出ている時しか、あの光を見ることはできないらしい、ということだった。
 彼は、来る日も来る日も、あの光を求めて、人間を見続けた。光がもう一度落ちてくるのを待ち続けた。冬になり、気温が下がると、彼は室内に移され、そこで人間の目に晒された。室内では、人間とはガラスで隔てられている。彼は、人間により近づくことが出来るようになったが、光が落ちてくることはなかった。この場所では、太陽が見えないせいだろう、と彼は思った。
 そうして、数カ月が過ぎた、夏のある日のこと。彼はまた水場で、光を待ち続けていた。結局、あれ以来、いくら太陽が照りつけていても、多くの人間を見続けても、光を見ることがなかった。この時になると、彼はなぜ光を求めているのか、考えることすらやめていた。ただ、光が見たいという本能だけが残っていた。
 その日も、結局光を見ることはなかった。人間たちは、徐々に家路に着こうとしていた。彼も、まばらになった人間を、熱心に見るわけでもなく、うつろに眺めていた。期待することを諦め始めていた。
 その時、彼の視界の隅で、赤い光が見えた。彼は、その方向を見る。すると、そこにあったのは、陸地にはねた水がたまってできた、水たまりだった。その水たまりが、彼の求めていた赤い光を放っていたのだった。
 彼は理解出来ないまま、その水たまりから何かを感じ取っていた。その感覚の意味を感じている間に、赤い光が、自分の浸かっている水場の端からも、発されていることに気づいた。赤い光は、水場の端から、内側へ、どんどん広がっていき、ついには自分自身をも飲み込んで、水場全体を包み込んだ。そうして、赤い光を作っているのが、太陽だと気づいたとき、彼は、例の感覚の意味がわかった。
 彼が感じていたのは、自分がまだ母親と暮らしていた頃、まだ赤ん坊だった頃への郷愁だった。それまで、どんな熱い日でも、どんなにエアコンで快適に調節された空間でも見ることのなかった、夕日に照らされた川の色、それこそ、彼が求め続けた赤い光そのものだった。
 光が見えたのはその日だけで、それからしばらく、彼がその光を見ることはなかった。しかし、その時故郷と同じ光りに包まれていた彼は、これからの暮らしの中で、再び光り輝く何かを見つけることだろう。
すてぷぷ
2011年05月05日(木) 00時58分29秒 公開
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■作者からのメッセージ
初めまして、すてぷぷと言います。今回、友達にお題をもらい、三題噺を書いてみました。ただ、お題と話があまり絡まなかったので、あえてお題は伏せておきます。
物語を書いたのも初めてで、まだわからないことが多いので、アドバイス等がいただけると嬉しいです。

この作品の感想をお寄せください。
No.7  伊藤  評価:40点  ■2017-11-07 22:37  ID:4mn8nqu8pOc
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はじめまして。伊藤と申します。

このページへは、ワニの嗅覚のことを調べていて、たまたま辿り着きました。
作品の公開日は数年前、他の方のメッセージの日付を見ても同じような時期だったので、迷ったのですが、投稿させて頂くことにしました。

先述したように、このページへはグーグルで検索していて、たまたまアクセスしました。内容が小説であることにはすぐに気づいたのですが、文章に惹かれてついつい読み進めてしまいました。

他の方の投稿にもあることですが、いちごジャムと夕日というのは自分の中のイメージとして結びつかず、意外に感じました。
私はてっきり、いちごジャムから血を連想してしまい、人が襲われるのかなと予想して読み進めていたので、いい意味で裏切られましたね。

このワニは赤い光を見て、恐らくは遠い異国の、アフリカかアメリカかあるいはそれ以外かは分かりませんが、故郷の大自然に思いを馳せているのかなと想像してしまい、印象に残りました。良かったです。楽しめました。

No.6  でんでろ3  評価:30点  ■2011-06-05 05:55  ID:ZH97sOyv6Fk
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初めまして、と言うのが礼儀なのに、自分の初投稿のメッセージにも、凶さんとシロクマさんへの感想にも、「初めまして」を付け忘れたでんでろ3と申します。ごめんなさい。初めまして、よろしくお願いいたします。
来る日も来る日も来る日も来る日も、同じ一日の繰り返しの動物園で、来る日も来る日も来る日も来る日も、赤い光を待ち続けたワニの心情が良く伝わってきました。
ちなみに、私も、一般理系大学生でした。今後とも、よろしくお願いいたします。
No.5  凶  評価:30点  ■2011-06-02 21:38  ID:H5kn4nBA6qA
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はじめまして。怖いイメージのワニですがかわいらしく感じました。そしてなにより文章のレベルの高さに驚きましたし、僕の自身の低レベルを痛感しました。
No.4  すてぷぷ  評価:0点  ■2011-05-13 22:34  ID:C8B6lqFm9o2
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zooeyさん、初めまして。コメントありがとうございます。

絵本ですか。ちょっと文章が硬かったかな、と思っていたのですが、そう感じていただけたのなら嬉しいです。最初の方は、どんな雰囲気になるのかをあまり意識していなかったのですが、中学校なんかの試験っぽいな、と思って書いてました。
特に文章を書いたりはしてません。高校の宿題の読書感想文すらまともに書いてないような、一般理系大学生です。お褒めいただいて光栄です。
No.3  zooey  評価:40点  ■2011-05-12 17:46  ID:qEFXZgFwvsc
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初めまして、読ませていただきました。
とても良かったです。
前に絵本で『チョコレートを食べた魚』(だったと思うのですが…)という作品を読んだことがあって、それととても似た、切なくもあたたかい読後感でした。
ワニのクラッカーのジャムやその他のものを見つめる描写がどこかかわいらしく、ワニに寄り添って読むことができました。

これが初めて書いた物語とは、信じられないくらいお上手だと思いました。
物語以外に、何か書かれている方なのでしょうか?

面白かったです。
No.2  すてぷぷ  評価:0点  ■2011-05-09 18:57  ID:C8B6lqFm9o2
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大歳 籠さん、評価ありがとうございます。返事が遅れてしまって申し訳ありません。

ジャムの色と夕日の色の件ですが、それはもう自分の表現力不足でした。似ているとイメージさせるだけの描写が必要でしたね。
それから、人間の家族を見て自分の家族を思い出す、という展開も、確かに盛り込めたらよかったです。なるべくワニ以外に登場人物性を出したくなかったので、家族に目を向けていませんでした。
No.1  大歳 籠  評価:10点  ■2011-05-07 21:10  ID:lhFvAZn8V7E
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 読ませていただきました。

 さて、感想ですが……、
 まず、太陽光が反射したジャムの色と幼き頃の夕日に染まる川の色に関して何だけれど、自分のイメージではどうも上手く繋がりません。
 ジャムにいくら太陽光が反射しようと夕焼けの朱(?)色と似ているとは思えないのです。
 家族連れの仕草をみて、自分が幼いころに過ごした故郷を思い出すというならしっくり来るかな? と自分は思うのですが、終盤でワニは水たまりに反射した夕焼け? で郷愁する訳ですが、それならクラッカーの件は必要だったのかなと思いました。
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