オリーブの花と正義をあなたに
 プロローグ

 顔に纏わりつくような埃に顔を顰めながら、ブレア=カレンは永遠に続くかと思われる階段を下りていた。
 地獄の底へと続くかと思われる階段は下へ降りていくごとにその暗さを増していった。カレンは徐に懐に入れてあった書状を今一度見直した。

「被告人 ジャン―バッカス。
 罪状――父親殺し。
 被告は父親に勘当された怒りから自らの父親を鈍器で殴りこれを殺害。これは道徳的に見ても許せるものではなく速やかな刑の執行が望まれる。
 刑罰――車裂きの刑」

 カレンは胸のうちでため息をつくと、書状を懐にしまい直した。これから自分がすることを考えるだけで気が滅入る。
 拒否はできない。自分がソレを拒否して逃げ出すようなことがあれば一族の名誉に傷が付く。それだけは出来ない。
 階段の奥から薄らと、不気味な明かりが漏れてきた。監獄が近い証拠だ。カレンを先導していた兵士の歩みも早くなる。まるで、一刻も早くカレンから離れようとしているかのように。
 カレンは長いまつ毛をわずかに伏せた。けれどすぐさま首を振る。慣れたこと。いつものことだ。
「こちらです」
 カレンに付き添う兵士はそう言って鉄格子の奥にいる人物へと目配せした。
 書状に書いてあった人物、ジャン―バッカスがそこにいた。
 両手を後ろに組み、それは鎖に繋がれているようだった。身体全体が痩せこけて酷く衰弱しているように見える。
 けれど、カレンにはこの青年がとても父親殺しをするなんて思えなかった。この状況でなければただの好青年に見えたであろう。
 カレンは青年にどこか父の面影のようなものを感じていた。
 青年は顔を上げ、カレンの瞳を見た。青年の瞳には大きな隈が出来ており、精神的にも参っているようだ。
「……へえ、あんたがブレア=カレンか」
「何か?」
「いや、もっと大柄で強面の男だと思ったんだが、まさか女でしかも子供だとはな。思いもよらなかったよ」
 ジャラジャラと鎖を揺らし、バッカスは言った。カレンは言われ慣れている皮肉に眉ひとつ動かすことなく言葉を紡ぐ。
「私も、あなたがもっと大柄で強面の男だと思っていました。父親、殺しをするくらいですから」
「はっ、死刑執行人は人を殺したって眉ひとつ動かさないっていうからな、あんたにゃ俺の気持なんか分からないよ」
「……あなたも、そんなことを仰るんですか?」
 カレンは思わず、そんなことを口にしてしまい心の中で後悔した。
「何?」
「人を殺して、何も思わないわけがないでしょう? それでも、これは正義だって自分に言い聞かせて……私には、あなたが父親を殺したなんてちょっと思えません」
「どうしてそう思う?」
「あなたは……私の父にどこか似ているんです」
「そうか……」
 バッカスはカレンの言葉を訊くと何かを考えるように俯いた。そして、暫く経った後、言葉を紡ぐ。
「あれは、あれは事故だったんだ。俺は親父を殺すつもりなんてなかった。ああしなければ俺が死んでいた。あれは正当防衛だったんだ……! でも、裁判所の連中は俺の話なんか全く聞こうとしない。あんたは、俺の話を聞いてくれるのか?」
「あなたの話を聞きましょう」
 バッカスは眼を見開いて今一度カレンを見た。その眼には喜びのような、何か光のようなものが灯っていた。
「自分を死刑にする人間にこんなことを話してどうなるってんだか分からないけどな……」
 バッカスの話は纏めればこういった内容だった。
 彼の父は腕の立つ鉄鋼職人だったらしい。その噂から宮殿からも仕事の依頼が来ており、中々に裕福な生活を送っていたようだ。
 バッカスは父親のことを尊敬していた。特に鉄鋼職人になりたいという願望があったわけではないが、父の意向に特に不満は無かったそうだ。
 その平和な日々が崩れたのはバッカスがある思想家の本を読んでからであった。彼は国民が政治の表舞台に立つべきだという考えに酷く感動し、それを父親に話した。だが、それがいけなかったのだ。バッカスの父親の思想は随分と古典的なものだった。
 人間の平等なんて幻想にすぎない、ロバの耳を切ったって馬になるわけでもない。そもそも、人間の平等等ということを口にする人間は落ちこぼれの出来そこない、他人の成功を妬む連中だ、世の中には秩序というものがあり、人間にはそれぞれの分というものがある。国王陛下の意向に少しでも逆らうものはこの俺が成敗してくれる。といった調子だったようだ。
 バッカスの父親は彼に思想を捨てされるように迫った。
 父親に反抗したことなど一度も無い彼だったが頭ごなしに否定され意地になった。バッカスの父親は彼を家から追い出した。革命思想に溺れたやつはもはや地獄に落ちたも同然、自分の息子ではない。彼の父親はそう言っていたようだ。
 バッカスは闇夜に隠れながら自身の家へと侵入した。もう一度、父親と話がしたかったのだそうだ。だが、バッカスの父親は彼の話に聞く耳を持つことはなかった。バッカスの父親は持っていたハンマーで彼に殴りかかってきた。バッカスは近くにあった岩で応戦したが、不運にも父親の頭に岩が当たってしまった。
 それが、事の顛末らしい。
 バッカスは全てを話し終えた後、すっきりとした顔でカレンを見た。もう、後悔はないということなのだろうか、それがカレンには悲しかった。
「ってことさ、俺についた弁護士は役立たずでな、全く意味がなかったよ」
「あなたは……悪人なんかじゃ、ないじゃないですか」
 カレンは瞳から溢れる涙を抑えることができなかった。涙腺が決壊して石畳に雫が零れ落ちる。石畳は日光が全く入り込まないせいか気色悪く湿っていた。
「あんた、泣いてるのか……?」
「泣いてなんか、いません……」
「意外だな、死刑執行人ってのは血も涙もない連中だとばかり思ってた」
 カレンはようやく零れ落ちる涙を止めた。雫を振り払い、もう一度バッカスを見た。
「今のは見なかったことにしてください。父上に申し訳がないのです」
「まあ、見なかったも何も俺はもうすぐあんたに殺されちまうんだけどな」
「せめて、せめて、あまり痛みを感じずに遂行します。私には、それくらいしか出来ません」
「そうしてくれると助かるな。失敗してくれるなよ」
「バッカスさん」
 カレンは言った。
「ん、何だ?」
「もう、後悔はありませんか?」
「後悔か……そうだな、出来れば最後に彼女に会いたかった」
「彼女、とは?」
 カレンがそう尋ねるとバッカスは突然泣き出しそうな顔になってカレンを見た。
「親父は俺の好きな女を奪おうとしたんだ」
「どういうことですか?」
「俺の家には未亡人の女性とその娘が身を寄せていたんだ。俺は、その娘、エレーナのことが好きだった。でも、親父は俺の気持ちを知っていながら彼女と結婚しようとしたんだ。許せるわけないだろ」
 バッカスの父の年がいくつかは分からないが、そのくらいの年の差なら結婚することだって珍しくない。息子を勘当したのなら新しい跡継ぎを作ろうと躍起になるはずだ。そして、それがバッカスに対する最高の罰になるに違いない。彼の父親はそう考えたのかもしれない。カレンはそう思った。
「それが、唯一の心残りですか……でも、私にはそれは」
「いや、いいんだ。俺が親父を殺したのは事実だし、罰はちゃんと受けるよ。エレーナにお別れを言えなかったのは残念だけど、あんたの泣き顔を見れたんだ。これ以上の冥土の土産はないだろ?」
「なっ、からかわないで下さい」
 カレンはバッカスの言葉に狼狽し、顔を赤らめる。
「ははっ、あんた将来絶対いい女になるぜ。俺が保証するよ」



 地下牢から外に抜け出すとカレンは陽の光の眩しさに眼を細めた。
 地下牢から処刑台までは距離的にかなり近かったが、安全を期すということで兵士たちが馬車を用意していた。サントハイムの街の風は妙に荒れていてカレンは思わず髪を押さえつける。
 馬車に乗り込む一歩手前、カレンは風に乗って飛んできた一枚のチラシに眼がいき、それを手に取った。手書きで書かれてあったチラシに驚いたのはむしろバッカスの方であった。
「あいつら……」
 そこにはバッカスの無実を訴える分が紙一面に書き記されていた。バッカスは父親による虐待の被害者であること、父親の不当な態度があったにもかかわらずバッカスが父親思いの息子であったことを人々に訴える内容だった。
 バッカスはそのチラシを見ると慌てるようにカレンに言葉を投げかけた。
「早くしてくれ、早くしないとあいつら俺を助けにきちまう!」
「このチラシを書いた人たちとは知り合いなんですか?」
「ああ、犠牲になるのは俺だけでいいんだ。だから、急いでくれ!」
「……分かりました」
 カレンはバッカスの意志を尊重し、彼を急いで馬車へと乗せた。兵士も続いて馬車へと乗り込む。扉を閉めて、後はカレンが乗り込めば完了というところで一羽のカラスがカレンの右肩へと止まった。
 真黒で災いを呼び込みそうなカラスは死刑執行人の私にはピッタリだ、なんてそんな悲しいことをカレンは感じていた。
「おい、カレン。ちょっとまずいぜ」
「クロ、どうしたの?」
 カラスの名前はクロと言った。カレンがまだ幼いころひょんなことから出会ったのだ。クロは普通のカラスではない。言語を介し、カレンと対等に話すことが出来た。クロが言うには「カラスは頭がいいからな」らしい。今では餌を与える代わりにカレンのことを色々と助けてくれている。
 そして、クロがこんなにも真剣なのは非常に珍しいことだった。
「処刑台の周りのやつらが騒ぎ始めてる。どうやらいつもの通りにはいかないようだぜ。急ぐんだな」
「うん、分かってる。もう少し、様子を見てきて」
「あいよ」
 クロはそう言うと青空へ向かって飛び立っていった。
 カレンは馬車に乗り込みながら言い知れぬ不安に駆られていた。死刑執行人が処刑に失敗し、観衆に殺されると言うのは珍しくない。観衆の感情とは表裏一体である。最初は死刑囚に対して非難の声を浴びせるが、死刑執行にもたついたりすれば彼らは同情し、悪人は執行人のほうへとすり替わる。それが原因で命を落とした同業者の話をカレンはいくつも耳にしていた。
 安全かつ、迅速に刑を執行しなくてはならなかった。後ろで騒ぎ立てるバッカスの言葉通りに。

 死刑執行台の一帯は騒然としていた。観衆はいつものように大勢集まっていた。彼らは太鼓を持ち、カレンたち執行人に対して「早くやれー」等と罵声を浴びせるのが常だった。
 観衆は死刑執行を娯楽と勘違いしているのだ。古代のある国では囚人たちが猛獣と、あるいはもう一人の囚人と命を懸け戦うコロッセオという場所があった。そこは当時の人たちにとって最大の娯楽であったらしい。
 今この国ではそれが死刑執行に変わっているのだ。人が命を落とす様を見て何が楽しいというのだろうか。カレンには全く持って理解できなかった。
 だが、今日の観衆の様子はいつもとは打って変わっていた。まだ、カレンたちが死刑台にも上がっていないというのに兵士たちが観衆を取り押さえにかかっていたのだ。石畳は激しく悲鳴を上げており、円形の広場は沢山の観衆で溢れかえっている。
 カレンはそこで先ほどのチラシの内容を思い出していた。
 チラシにはバッカスの父との政治的意見の食い違いについても書き記されていた。そして、さらに父親が恋人を奪い取ろうとしたことも。
 もしかすれば、バッカスの友人たちがそれを観衆に言いふらしたのかもしれない。カレンはそう思った。人間と言うのはドラマチックなストーリーにとても弱いのだ。父親殺しの犯人とは言っても事実は不運な事故。話を訊けば誰がどう見ても悪いのはバッカスの父親だ。この観衆全てがバッカスに同情し、死刑に対して反対しているのだとすれば、悪は――一体誰なのだろうか。
 処刑台の周りには当然のように兵士たちが待機していた。重要な処刑ならまだしも今日行われるのは一般的なものだ。それほど数は多くなかった。
 兵士たちは観衆の勢いに押され気味だった。急がなければ自分の命が危ない。カレンがそう感じていた時、かん高い女性の声が一瞬、辺りの喧騒を破った。
 人々がそちらの方を向くと若い女性が泣きながら白いハンカチを振っていた。馬車の窓は開けっぱなしになっていたため、その声はカレンの耳まで届いた。
「バッカス、バッカスー!」
 悲鳴にも似たその声は馬車の中にいるバッカスに宛てたものだった。バッカスは両手を縛られていたにも関わらず立ち上がり、窓から身を乗り出した。バッカスは涙を流しながらも笑顔を浮かべて叫んだ。
「さようなら、エレーナ、さようなら!」
 その声はカレンの耳にもきちんと聞こえた。カレンは心の中で自分を律した。バッカスは自分が処刑されることを望んでいる。そう言い聞かせて馬車を処刑台へと急がせる。
 出来ることならば、このままバッカスを逃がし、エレーナと対面させてあげたかった。でも、それは出来ないことだった。カレンの仕事は死刑の執行。行わないという選択肢はカレンの中にはなかった。
 と、突然馬車が急いていた足を止めた。カレンは一瞬、激しく身体を揺らしたが、すぐに体勢を立て直し馬車の騎手へと声をかけた。
「一体どうしたのですか?」
「そ、それが……」
 騎手はそう言って前方を指さした。カレンは釣られて指の先を見た。数人の青年たちが馬車の前に立ちふさがるようにして仁王立ちしていた。
「な……」
 カレンは思わずそんな声を漏らした。今まで数多の処刑を担当してきたがこんな経験は初めてのことだった。青年たちの一人、恐らく彼がリーダーであろう。ひときわ体格のいい、職人風の男が一歩前に出て言葉を発した。
「バッカスは悪くねえ。バッカスをこんなところで死なせるわけにはいかないんだ」
「早く取り押さえろ!」
 リーダー格の男の言葉と同時に一斉に兵士たちが青年たちに襲いかかった。兵士たちにより馬車の道は切り開かれた。喧騒のせいでそれ以上彼らが何と言っているのかは分からなかった。
「急げ! 急がないと本当に大変な事になるぞ!」
 馬車の後部座席からはバッカスの声が響く。バッカスは青年たちの言葉が聞こえる度、呻くような叫びを漏らしていた。
 カレンはただ馬車を急がせる他なかった。
 馬車は観衆の周りを駆け抜けて、何とか処刑台の麓まで辿り着くことができた。だが、とても処刑に取りかかれるような雰囲気ではなかった。広場全体が騒然とし、観衆が大きく波打っていた。やがて観衆が処刑台の方へ押し寄せてくることがカレンには分かった。丸太を用いた頑丈な柵も今は何の意味も成していなかった。たちまちの内に柵は壊され観衆が処刑台の周りに押し寄せてきた。
 すでに馬車を降りていたカレンとバッカスだったがもうこれでは処刑どころではなかった。
「早く殺してくれ!」
「そんなことを言われても、今は……」
 カレンはバッカスの悲痛の訴えにも上手く回答することが出来なかった。馬車の護衛兵たちも必死に取り押さえようとするが、観衆の勢いが勝っていた。
「なっ、離せ! 止めろ!」
 観衆の一人、いや、先ほどの青年たちの一人があっという間にバッカスを担いで観衆の中に混ざりあった。
 カレンは観衆に囲まれ、一人きりになった。

 ――殺される。
 
 カレンは死を覚悟した。
 バッカスは悪ではなかった。
 悪ではない人間を処刑しようとした自分は紛れもなく悪だった。
 観衆の中から先ほどの青年たちのリーダーが歩み寄ってきた。カレンよりもかなり大きな男はカレンの腕を力強く掴んだ。
 今度は自分が車裂きの刑にされる番かもしれない。カレンは涙が出ないように抑えることで精一杯だった。
「あんたが、ブレア=カレンか?」
 青年はカレンに向かってそう尋ねた。辺りの観衆は静まり返っていてカレンは彼の声をはっきりと訊くことができた。
「はい、そうです」
 カレンははっきりとした口調でそう言った。
 せめて死に際ぐらいは恥の無いようにしたい。カレンはそう思っていた。
 死刑執行人を歴任してきた父、先祖に対して恥の無いような、そんな思いしかなかった。
「カレン」
「え?」
 カレンの予想に対して、若者は優しい声で、優しい笑顔でカレンをそう呼んだ。
「カレン、怖がらなくていい。俺たちが憎んでいるのはあんたじゃない。あんたの道具だ。これからはあんたが誰かを処刑する時は、あっさり殺さにゃいかん。車裂きなんて、苦しめる殺し方はいかん。地獄は神様に残しておこうよ。分かったかい、カレン」
 若者はそう言って群衆に叫んだ。
「みんな、カレンを通してやってくれ。いいか、カレンを罵ったりしたらただでは済まんぞ!」
 若者の言葉に観衆が割れた。そして、道が出来た。
 カレンはただ、唖然とそれを眺めるばかりだった。
「何で……私はてっきり」
「殺されるって思ったか?」
 若者の手はもう既にカレンの手から離れていて、その手はカレンの頭の上に置かれた。
「大丈夫だ。あんたは悪じゃない。殺したりなんかしないよ」
 ポンポンと若者の手が優しくカレンの頭を何度か叩いた。
「ひぐっ……うう……」
「なっ、おいおいどうしたんだ?」
 カレンは突然溜まっていた何かが溢れだしたかのように涙を流し、慟哭し始めた。若者はどうしたらいいか分からずにカレンの顔を覗き込んだ。
「だって……私、怖くて……本当に殺されるって思って……」
 他人にこんな風に優しくされた。
 命を、助けられた。
 全てが懐かしくて暖かくて。死刑を行わないという安堵感もあって、カレンは涙を止めることができなかった。
「はははっ。死刑執行人もこんな風に泣いちまうんだな」
 観衆が一瞬のうちに笑い声に包まれた。それは暖かくて心地いいものだった。カレンはその声に反応してようやくその涙を止めた。
 ようやく自分のしていることの恥ずかしさに気が付いたのだ。
「い、今のは、見なかったことにして下さいっ。父上に申し訳がないのです」
 カレンは顔を赤らめてそう言った。
「ああ、分かってるよ。俺はマチュランって言うんだ。神が導いてくれるのならまた会うことがあるかもな」
「でも……」
「いいのさ、これだけ民衆が反対してるってのに判決を裁判所がひっくり返さないはずがない。さあ、もう行くんだ」
 カレンはマチュランに背中を押され観衆の中に出来た道を駆けだした。
 誰もカレンに対して疎むような視線を向けることはなかった。それが、カレンにとって嬉しかった。


「おう、無事だったか、カレン」
「クロ……今までどこいってたの?」
 街の外れにある高台の上、そこにカレンはいた。クロはいつものようにカレンの肩に足を下ろす。
 カレンがあの場を立ち去ってから民衆は処刑台を打ち壊し始めた。そして、バッカスの遺体を焼却するために用意された薪の上に処刑台の残骸を積み重ね、火をつけた。老若男女が火の周りに輪を作り、まるで宴のような騒ぎの中で踊り続けた。
 この高台からはその様子がよく見えた。
「いや、中々いい見世物だったからつい見とれちまってさ」
「私が死んだらどうするつもりだったの?」
「そんなことは考えなかった。あいつらはカレンを殺さないって思ったし、俺に出来ることなんてそもそも限られてるからな。まあ、あんな大勢に泣き顔を晒して普通でいられるお前もどうかと思うけどな」
「なっ、もう! バカ、バカカラス!」
 カレンは両手をクロに向かって振り回したがクロは軽くそれを避けて宙へと舞った。カレンは高台の柵に身を乗り上げてクロを睨みつけたが、クロはケタケタと笑うばかりであった。
「ははっ。しかし……変わったもんだな、この国も」
 クロは高台の上に着地してそんな言葉を漏らした。
「昔はあんなことあり得なかったのにな。王の力が弱まっている証拠だろうよ」
「あ、うん……そうだね」
「熱心な宗教家のカレンさんとしては心が痛むかい?」
「うん……でも、あの人たちは乱暴なやり方で国を変えたりしない。そう思うんだ」
「差別されなかったからか?」
「違うよ」
「ふうん、そうかい」
 夕陽の色と処刑台を肴にして燃え盛る炎の色が混ざり合う。
 カレンはこの国の動きを肌で感じていた。
 それが、自分にとって幸福な結果になるようにと願いながら。










 一章

 瞼を、開ける。
 眼を開けるとそこには見慣れた天井が広がっていた。父と二人きりで住むにはこの家は狭すぎる。カレンはそんなことを思っていた。
 カレンはベッドに横たわりながら、机に向かい、本を読みふけっていた父へと視線を向けた。
「お、カレン起きたのか」
「父上、何をされていたのですか?」
「ん? 今はこれを読んでいたんだ」
 父は立ちあがってカレンに読んでいた本を差し出した。カレンはベッドから身体を起こし、その本を手に取った。
「うっ、重い……」
「まあ、そうだろうな。早くお前もこれを読めるようにならないとな」
 父がカレンに渡した本はとても古めかしくていくつも継ぎはぎが施されているものだった。まだ子供のカレンにとってその本は重すぎた。
 カレンは父がいつもこの本を大事に扱っていることが気になって、思い切って尋ねてみることにした。
「父上、この本は一体どんなことが書かれているのですか?」
「この本はな、先祖代々受け継がれてきた医学の知識が集約されているんだ」
「医学の、知識?」
 カレンは父が放った小難しい言葉に首を傾げた。医学とは一体何のことなのだろうか。
「カレンにはまだちょっと難しいだろうな。その本には人の身体の中のことが沢山書かれているんだよ」
「人の、からだ? じゃあ、私の身体のことも書いてあるのですか?」
「ああ、それどころかどんな病気も治してしまう方法まで書いてあるんだ。凄いだろ」
「ええっ!? どんな病気でも? 凄い、凄いです父上!」
 カレンは父に尊敬の眼差しを向けた。父上はやっぱり凄い。カレンの心の中はそんな言葉で満たされていた。
「ははっ、これを読むためにはまず読み書きをきちんと覚えないとな。……カレン」
「何ですか、父上」
 父は突然、少し悲しそうな眼で、声でカレンに話し始めた。カレンは何となく父の話の続きが予想出来ていた。
「私が勉強を教えてあげられれば一番いいのだが、何分仕事が忙しい。いずれ話そうと思っていたことだが、カレン、お前には一つ山を越えた先にある学校に行ってもらうことになるだろう」
「……それはしばらく父上と離れ離れになる、ということですか?」
「ああ、そうだ」
 分かり切っていたことだった。自分はきっとこの付近の学校には通えない。通えるはずがない。父のように博識になるにはどこか遠くの学校に行って学ぶしかない。
 でも、そうと分かっていてもカレンは父上と離れる悲しみを抑えることができなかった。
「わ、分かりました……」
 カレンは涙を流しながらもはっきりと父にそう言った。父の後を継ぐために自分は色々なことを覚えなくてはいけない。そのためには父と離れなくてはいけない。分かっていたことだった。
 父はカレンの髪を梳いて、頭を撫でた。優しく、とても優しく。
「カレンはやっぱり泣き虫だな。でも、強い子だ。きっと私の後を継いでも立派にやってくれるさ。だから、頑張ってくれ、こんなことしか出来ない父で済まないな」
「父上っ!」
 カレンは父の胸に思わず抱きついた。父のことが好きだった。離れたくなかった。
 一人きりで孤独に晒されるのは嫌だったのだ。
「カレン、私はお前のことを愛しているよ」
 カレンはいつまでも泣き止むことはなかった。街の外れに立たずむ一軒家にはカレンの鳴き声が響き続けた。


 カレンの家は代々死刑執行人を歴任していた。カレンはその四代目に当たる人間だった。
 だが、死刑執行人という職業はとても人に誇れるようなものではなかった。処刑人一族は、不吉な影に包まれた一族であり、世間から隔離されて生活していた。それはどんな国のどんな一族でも変わりはない。もちろんカレンたちの一族も例外ではなかった。
 平気で人の首を刎ね、手首を切断し、生皮を剥ぎ、鉄の棒で身体中の骨を打ち砕き、ロープに吊るして人を殺す。
 人が悲痛の叫びを上げているのに顔の表情一つ変えることがない。彼らには人の心がないのか? 一体何を考えているのか分からない、不気味な連中だ。よくも血にまみれた手で妻を抱いたり、子供の頭を撫でたり出来るものだ。本当に信じられない連中だ、ああ気味が悪い、人々はそう本気で信じていた。
 街で処刑人を見かけると、人々は嫌悪の念を露わに眼をそむけ、身体が接触しないようによけて通る。例え間接的であろうとも物理的接触を避けようとして、商人が処刑人の家にものを売るのを拒否することもあった。不浄の金は受け取れない、と。商店としては、処刑人の家族が来店すると他の客が寄り付かないのではないかという心配もあった。
 実際、カレンも父に言われてあまり外に出た経験がなかった。
 外は危ないから、なんて父は言っていたけれどカレンには何となく分かっていたのだ。
 だから、こんな離れた学校に来ることも了承出来た。それしか道はなかったのだ。
「今日から新しい仲間が増えるので紹介します。では、カレンさん、どうぞ」
 担任の言葉に合わせ、カレンは教室の扉を開け放った。
 教室は全部木造で出来ていて、その香りをカレンはとても気に入った。自分と同年齢の子供が沢山いる教室はカレンにはとても大きく見えた。
 カレンは不安で頭が一杯になりながら教卓へと歩み寄る。
 嫌われないだろうか。
 執行人の子供という立場を隠しても、仲間外れにされてしまうのではないか。
 カレンはそれがとても怖かった。
 父上以外の人間に優しくされた経験なんてカレンにはなかったから。
「べ、ベルジェ=カレンです。よろしくお願いします」
 ベルジェ、という名字は担任の配慮によるものだった。知られている可能性は低いが、ブレアという名字だけでカレンの正体がばれてしまうかもしれない。
 そうなってしまうと色々と大変だろうと、担任は苦渋に満ちた表情でそう言った。カレンは当初反対したが、これも君の父上のためだという担任の言葉に渋々納得したのだった。
 カレンは勢いよく頭を下げた。
 が、勢いが良すぎた。
「いっ、いったー!」
 カレンの頭は教卓の端にぶつかり、勢いよく音を立てた。それがきっかけとなり教室には堰を切ったように笑い声が満ち溢れた。
「はい、元気ないい子ですね。では、カレンさんは窓際のあの席に座ってください」
 カレンは額を右手で摩りながら担任の指さした席を見た。
「はい、分かりました」
 カレンは恥ずかしさのあまり、俯きながら担任の指定した席へと歩いていった。だが、カレンが俯いていたのは恥ずかしさのためだけではなかった。
 教室内にいる生徒たちは皆、カレンに嫌悪の視線を向けることはなかった。それが、カレンにとって嬉しかったのだ。
「よろしくね、カレンちゃん」
 ようやく自分の席に辿りついたカレンに声をかけてきたのは隣の席に座る小さな女の子だった。
「あ、うん……よろしくね」
「ん? どうかした?」
「い、いや、何でもないよ」
 カレンは嬉しかったのだ。
 自分は生きていく中でこんな言葉をかけてもらえるなんて思ってもいなかった。隣の席に座る女の子はツインテールで黒目がパッチリとしていてカレンにはとても眩しく見えた。
「私はアニエス、アブリーヌ―アニエスよ」
「アニエスちゃんだね、改めてよろしく」
「うん」
「こらー、授業を始めるから早く席に着きなさい」
「は、はいっ、すいません……」
 教室はまた、笑い声に包まれた。アニエスも当然のように笑っていた。それがカレンには嬉しかったのだ。

 カレンは意気揚々と下宿先である担任の家へと向かっていた。担任の名前はアルディーと言った。
 アルディーは教育熱心な教授でカレンの家の事情を知った上でカレンを下宿させ、教育してくれるというのだ。カレンの父は直接アルディーに会い、彼ならばお前を預けられると確信したらしい。カレンはそんな話を父から聞いていた。
 学校からの帰り道は一人きりだった。けれど、カレンの心は満たされていた。初めてできた同年代の友達。嬉しくてカレンは涙が零れそうだった。
 これから父のために読み書きを覚えるのだというやる気でカレンは満ち溢れていた。
 帰り道は殺風景なもので遠くまで伸びる一本道と草原、そして所々に生えている大きな木くらいしかカレンの眼にとまることはなかった。
「――おい」
 大きな木の陰に入り込んだところでカレンは誰かの声を訊いた。カレンは周囲に目配せしたが草原の中には人の姿は見られなかった。
「……気のせいかな」
「ここだよ、ここ」
 影の中から抜け出そうとした時、カレンは今度こそはっきりとその声を鼓膜で捕えた。
 声はどうやら木の上から聞こえるようだった。
「……誰もいない?」
 カレンは木の上へ視線を移したがしかし、そこでも人の姿を捕えることは出来なかった。
 瞬間、木の上から一匹のカラスが飛び出した。カラスは勢いよくカレンの元へ襲いかかってきた。
「きゃ――!」
 カレンは思わず、身を屈めた。カレンは背中でカラスが自分から離れていったのを感じると恐る恐る顔をカラスの方向へと向けた。
「ちっ、おしかったな」
 カラスは宙で羽ばたきながらそんなことを……呟いた。
「か、カラスが喋ったっ!?」
「何だよ、カラスが喋ったらいけないってか?」
 カレンは思わず、その場で尻もちをついてしまった。カラスはカレンの悲鳴に怯むことなく言葉を紡ぐ。
「お前、知らないのか? カラスは人間並みに頭がいいんだ。多分、今のお前より俺は頭がいい自信があるぜ」
「で、でも、カラスが喋るって……」
「はあ、まあいいや」
 カラスはカレンがまだ驚いている様子を見て、呆れたようだった。
「それよりお前、何か食べ物はないか?」
「食べ物? それなら給食のパンがまだあるけど……」
 カレンはそう言って鞄の中からパンの残りを取り出した。
「いただきっ!」
「きゃっ!」
 カラスは先ほどの攻撃並みの速度でカレンの手からパンを奪い去っていった。
「ちょ、ちょっと、勝手に」
「知ってるか? カラスはずる賢いんだよ。今回は相手が悪かったな」
 カラスはケタケタと笑いながら羽を上下に動かした。カレンは黒い羽が頭の上に落ちてきたのを振り払い、立ちあがった。
「悪人には必ず裁きが下るって父上は言っていたわ」
「俺は人じゃないしな。まあ、話を聞けよ。俺は何も強引にこのパンを奪いに来たってわけじゃない。このパンの代わりに俺はお前の相談に乗ってやろうと思ってな――ブレア=カレン」
 カレンはカラスの言葉に思わず一歩足を後ろへと引いた。
「な、何で私の名前……」
「まだ誰にも喋ってないってか? 誰にもって言っても俺はカラスだからな」
 カラスはそう言うと、一本だけ飛び出していた木の枝に両足を乗せ、真黒な羽を折りたたんだ。
「お前のことはこの国にくる前から見ていたよ」
「どうして?」
「興味があったんだ。人間っていうのは不思議なもんだよな。同じ生き物同士なのに誰かを差別せずにはいられない。そうすることで仲間同士の結束を強めたりしやがる。どうだ? この国に来て仲間の一人でも出来たか?」
「…………君には関係ない」
 カレンはカラスに対して冷たくそう言った。
「ははっ、その様子だと出来たようだな。だが、それもいつまで持つかな?」
「もうっ! 何なのよ、君はっ。そんなに私のことが嫌いなの?」
「人間のことはそこまで嫌いってわけじゃないぜ。何せ食べ物を恵んでくれるんだからな。ま、全部俺たちが強引に取ってるだけだけど」
 カラスはそう言うと、またケタケタと笑い始めた。カレンはその笑い声に苛立って声を荒げた。
「君に心配されなくたって、私にはもう友達がいるのっ」
 カレンはわざと大きな足音を立てながら木の傍を離れた。
「もし一人ぼっちになったら俺が友達になってやってもいいぜ。まあ、食べ物をくれるならだけどな」
 カラスの笑い声を無視してカレンはアルディーの家へと歩いていく。
(大丈夫、だよね、きっと……)
 カラスの言葉に触発されてカレンの心の中に不安がまた芽生え始めていた。
(アニエスちゃんは私のこと、本当のことを知ったって嫌いになんか、ならない)
 カレンはそう強く願うしかなかった。
 アンディーの家はもうすぐ見える。


「ねえ、カレンちゃんはもう結婚のこととか考えてる?」
「え!? な、何、そんな急に」
 学校の中にある噴水広場。カレンとアニエスはそこにある木製のベンチに二人で腰を下ろしていた。噴水を中心に広場全体には花壇が広がっていて、カレンはその光景に思わず感嘆の声を漏らしたのだった。
「そんなに不思議な事かな?」
 カレンはアニエスの言葉にただただ狼狽していた。結婚だなんて、そんなこと、カレンは考えたこともなかった。
 でも、カレンは父上からそんな話は聞いたことがあった。
 父は農家の出身で普通の女の人と結婚したらしい。その女の人がカレンのたった一人のお母さん。だが、カレンのお母さんはカレンが物心つく前に亡くなってしまったから顔は知らなかった。
 父のケースは例外らしい。執行人の結婚は殆どが執行人同士のネットワーク上で行われる。カレンが将来もし結婚するとすれば、十中八九同業者になる。
 だから、カレンには結婚なんて言葉にはそもそもあまり興味がなかったのだ。
「カレンちゃんもどこか中流の家の子なんでしょ?」
「え? 何で?」
「だって、カレンちゃん頭いいし、先生のお気に入りだからさ」
「お気に入りだなんて、そんな……」
 確かにアンディーはカレンによく気を使ってくれていた。それはただ単にカレンの事情を察してのことであり、それ以上のことはないのだが、どうやらアニエスには勘違いをされているようだとカレンは心の中で溜息をついた。
「謙遜しなくたっていいよ。いいなあ、私もカレンちゃんみたいに頭がよくて可愛かったらいい人と結婚できるのに」
「そんな、私なんかよりアニエスちゃんのほうが可愛いよ」
「頭がいいってところは否定しないんだね。やっぱり、自信あるんだ」
「えっ? いや、そんなつもりは……」
 カレンは慌てて手を振ってアニエスに否定の感情を表したが、アニエスはただ笑っているばかりだった。
「ふふっ、そういうところが可愛いのよ。あーあ、どうせならカッコいい人がいいよね。おじさんとかだったら嫌だよね」
「…………アニエスちゃんは大人だね」
「え? どうして?」
「だって、もう将来の、その、結婚のこととか考えてて私なんか全然」
 アニエスはカレンの言葉を遮るようにして言った。
「そんなの当たり前だよ。だってそれがお父様とお母様のためなんだから」
「あ、父上と母上のため……」
「私が結婚することが家の一番の発展に繋がるんだからさ。いつだってその用意は出来てるよ」
「アニエスちゃんはやっぱり、大人だよ」
「ええ? そんなことないってば、もうっ」
 アニエスはそう言ってカレンに笑って見せた。
 カレンはこんな日々がいつまでも続くのだと信じて疑わなかった。
 だが、そんな幻想はあっけなく崩れ去ることになる。


 カレンはいつものように教室に入り窓際にある自分の席へ座った。この時カレンはまだ気が付いていなかった。
 周りのクラスメイトたちの視線が泳いでいて、冷たいということに。
「あ、アニエスちゃん。おは、よう……」
 カレンはアニエスが教室に入り、自分の隣まで歩いてきたのに気が付いて朝の挨拶をした。
 だが、アニエスの様子はいつもと違っていた。カレンを睨みつけ、敵意をむき出しにしている。カレンはその様子に僅かながらの恐怖すら覚えていた。
「ど、どうしたの……?」
「あなた、私を騙していたのね」
「え? 何の、こと?」
 アニエスは机に鞄を下ろすことなく続ける。
「お母さまから聞きました。あなたが、あなたが執行人の家の子だって」
「――――!」
 ドクン、とカレンの胸は大きく高鳴った。
 心臓は早鐘のように鳴り、背中からは冷たい汗が流れ出る。
 知られてはいけないことを知られてしまった。
 カレンはそれでも、それでもアニエスを信じたかった。アニエスは自分の家の事情を知ったって友達のままでいてくれる。そう信じたかった。
「アニエスちゃん、あのね」
 アニエスはカレンの言葉を抑え込むように叫んだ。
「私に近づいて何をするつもりだったのっ!? 私の皮を剥いで実験台にするつもりだったのっ!?」
「そ、そんな、私はそんなことしないよ」
 カレンはうろたえながらアニエスに訴えかけたが、アニエスに彼女の言葉は届くはずも無かった。
「くっ……」
 アニエスはカレンの前で涙を流し始めた。唇を噛み、掌を血が滲むほどに強く握る。カレンはただ、それを見て狼狽するしかなかった。
「許せない……!」
「あ…………」
「処刑人が身分を隠して、どういうつもりだったのっ!? 私、あなたのこと本当に友達だと思ってたのに、全部、全部嘘だったのね」
 アニエスは自尊心を酷く傷つけられてまるで普通の状態ではなかった。カレンはアニエスに何と言葉をかければいいか分からなかった。
 ただ、ただカレンはアニエスと友達でいたかっただけなのに……
「わ、私もアニエスちゃんと……」
「恨みは晴らすわ。もうすぐあなたはこの学校にいられなくなるでしょうね、覚悟なさい!」
 アニエスは足音も高らかに教室の中から出ていった。力一杯締められた扉は壊れてしまいそうなほどだった。
 結局、カレンの言葉はアニエスに届くことはなかった。カレンはそれが酷く、悲しかった。

 数日後、教室の中からは一人、また一人とクラスメイトが来なくなった。
 そして、ついにクラスの中はカレンたった一人となった。

「……カレンさん、ちょっとこっちへ来て下さい」
「……はい」
 カレンがたった一人で残された教室の中でアンディーはそう言った。そして、カレンを廊下へと先導した。木造の廊下はカレンにとって永遠の長さにも感じられた。
 気が付くとカレンとアンディーは学校内のある一室の前へと辿り着いていた。カレンが入ったことすらないその部屋は理事長室だった。
 カレンはその様子を見て、これから何が起こるのか大体を理解した。
 アンディーに先導され、カレンは室内へと入った。扉に向かい合うように置かれている机に中肉中背の男が深刻そうな顔で座っている。カレンは入学前に彼のことを一度だけ見たことがあった。彼が、この学校の理事長だった。
「では、理事長先生のほうからお話があるから、よく聞いてください」
「いや」
 理事長は退室しようとするアンディーを掠れた声で呼びとめた。
「君が話してやってくれ、アンディー教授」
「は、ですが」
「君の方がカレン君と長い間一緒にいたのだろう? 私の口からは言いにくいことなのでな……」
「分かりました」
 理事長が頭を抱える中、アンディーはカレンの背丈に合わせ、上半身を屈めた。
「カレンさん、あなたは私が教えてきた生徒の中で一番優秀です」
「はい」
 アンディーはカレンの肩に手を置いた。
 カレンは何も感じることができなかった。
 アンディーは悲しそうな眼で、声で続ける。
「出来ることならずっと私が君に色々なことを教えてあげたかった。でも、私たちにも生活がある」
「はい」
「執行人の家の子と一緒のクラスで勉強なんかできないって沢山の親御さんから抗議の文書が届いたんだ」
「はい」
「このままではこの学校の経営が成り立たなくなってしまう。私は、私は、くっ」
 アンディーはそう言って苦痛の表情を浮かべた。
「一教師として、君に色々なことができるはずなのに、私は……」
「いいんです、先生」
 カレンはアンディーの手を取って、優しい声色で言葉を紡ぐ。
「私は元々、こういう運命だったんです。何も、悲しくはありませんから」
「すまない、私は、無力だ……」
 アンディーの言葉と同時、窓の外では雨が降り始めた。カレンの悲しみを慰めるかのように雨は降り続けた。


 雨に打たれながらカレンはいつもの帰り道を一人トボトボと歩いていた。
 一人で、本当に一人で。
 草原は雨に打たれて心地いい音を奏でていたが、カレンには聞こえなかった。
 カレンは気が付くと、前にカラスと出会った木の下まで到着していた。
 大きな木には、カラスが一羽木の枝にとまり、雨宿りをしていた。カラスはカレンを見つけるとまるで面白そうな玩具を見つけたようにカレンの元まで羽を広げ飛び立った。
「お、久しぶりだな、ブレア=カレン」
「うん、久しぶり、だね」
 カレンは俯きながらカラスに答えた。
「ははっ、その様子だと俺の予想が当たったみたいだな」
 カラスは前の時のようにケラケラと笑い始めた。真黒な羽がカレンの頭の上に舞い落ちる。
「やっぱり俺が必要だったろ? ほら、何か食べ物をよこせよ。そしたら話を聞いてやるからさ」
「…………」
「ん? どうした?」
 カラスはカレンが何も答えないのに不信感を抱くと彼女の顔を覗き込むように近づいた。
 カラスがカレンの付近まで近付いた瞬間、カレンはカラスを力一杯抱きしめた。
「う、うわっ、何すんだ! 止めろ、俺が悪かったって」
 カラスはカレンの手から離れようと羽をバタつかせたが、彼女の力は予想以上に強くとてもそんなことは出来そうにもなかった。
「い、一体、どうしたってんだよ。はあ……」
 カラスはとうとうカレンから離れることを諦めた。羽の動きが止まったのと同時にカレンが口を開く。
「……君の名前はね、クロがいいんじゃないかな」
「な、何!? クロって、一体どういうことだよ」
「真黒だから、クロ」
「な、何だその単純なネーミングはっ。俺にはもっと格好いい名前のほうが」
「――君は、私のことを見ても怯えたり、しないよね」
 カレンはクロの羽で顔を隠しながら、そう呟いた。
「な、なんだよ急に。お前はただの人間だろ? そんなこと考えたこともねえよ」
「食べ物は、あげる」
「何っ。本当か?」
「だから、私の傍にいて」
 カレンはそして、その顔を上げた。
 涙に塗れくしゃくしゃになった表情にカラスは一瞬驚いた。
「お、お前、泣いてるのか……?」
「泣いてなんか、ないよ」
 カレンは腕で雫を払ったがその全てが拭いきれることはなかった。
「お願い、私を、一人にしないで……」
「…………わ、分かったよ。だから、いい加減、手を離してくれっ」
 木の下には黒のうるさい鳴き声が轟いた。カレンの鳴き声はそれに掻き消されていた。


 カレンは止むなく、学校を追い出された後サントハイムの街へと帰還していた。
 カレンの父はたいそう残念がったが仕方のないことだ、と言ってカレンを慰めた。カレンは父の前では涙を流すまいと必死だった。
「ん、時にカレン。そのカラスはどうしたんだ?」
 父はカレンを慰めながらも肩にいった視線を外すことが出来なかった。カラスが人に懐くなんてちょっと考えられないことだから当然と言えば当然と思える。
「あ、父上、この子は、その、怪我をしていて」
「怪我?」
「可哀想だったので手当をしたらそのまま懐いてしまって……」
 カレンはたどたどしい言葉で父に苦しい言い訳をした。まさかこのカラスが言語を介し、そして友達になったなんて父に言えるはずもなかった。
「そうなのか。うん、カレンは優しい子だな」
「父上……」
「いいぞ、このまま家にしばらく置いていても。では、私は仕事があるからな、留守番を頼む」
「はい」
 父はそう言って玄関の扉を開け放ち、外へと出ていってしまった。真赤な絨毯が敷き詰められたリビングにはカレンと、そしてカラスのクロだけが残された。
「おい」
 父が出ていってすぐにクロが不満げな声をカレンに向けた。
「何よ」
「俺は別にお前に助けられたわけじゃねえだろうが。どっちかと言えば、お前が俺に頼み込んできたんじゃねえか「一人にしないで……」ってな。いやあ、今思い出しても笑えるぜ」
 ケラケラとクロはカレンの肩の上で笑い出した。黒い羽がカレンの頬に触れる。
 カレンは鬱陶しそうにその羽を手で払うと、パチンと指と指の間で音を奏でた。
「ん、何だ?」
 クロはカレンの指の音に呼応するように背後の部屋から何かが近づいてくるのにようやく気が付いた。
 クロが振り向いた瞬間、大きなドーベルマンがクロの身体を加えこんだ。
「う、うわあっ。な、何しやがる、この犬っころ! 離しやがれっ」
 ドーベルマンはクロの体のように真黒でクロの身体はドーベルマンの中に混ざり合った。
 カレンはクロを見下ろすように仁王立ちした。そして、クロを威圧するように言葉を紡ぐ。
「残念でした。私の家ではね、代々犬を飼っているのよ。それも優秀なやつをね。君が私に失礼な事をしたらこういうとこになるから覚えておいてね」
「へっ、やっぱお前は処刑人の子だな。血も涙もありゃしねえ」
「…………ノワール、それ、食べちゃっていいよ」
 ノワールはカレンの言葉を訊くとクロを加えこむ力を少しだけ強めた。
「ぎゃあっ! わ、悪かった、だから、早く止めさせてくれっ」
 カレンはクロの叫び声に同情したのか、一つ溜息をついてノワールに指示を出す。
「ノワール、もういいよ、離してあげて」
 ノワールはそして、クロの身体を解き放った。クロは自らの羽を整えるかのように室内を飛び回った。
「ふう……危なかったぜ。でも、ここまでは届かないだろうが、どうだ糞犬っ」
 クロは天井一杯まで飛びあがって笑い始めた。そんなことで自分の勝利を確信しているクロに辟易としてカレンはまた溜息を零した。
「はあ、残念ながらノワールは天井くらいまでなら余裕で届くから。今回は見逃してあげるけど、次は容赦しないからね」
「なん……だと……? くっ、お前、俺にこんな扱いをして本当に食べ物をくれるんだろうな」
「あげるよ、君が失礼なことをしなければの話だけど」
 クロはカレンの言葉を訊くと羽ばたく羽の勢いを弱め、カレンの肩へと両足を下ろした。
「とんだ貧乏くじを引いたもんだぜ。ところでお前、勉強のほうはどうなるんだ? 親父さんが教えてくれるのか?」
 カレンはしばらくの間の後、答えた。
「多分、父上が家庭教師の人を探してくれるんだと思う。もう、学校には行けそうにもないから……」
「へえ、ま、そう気を落とすなって、何とかなるだろ」
「うん、そうだね」
 クロはそして片方の羽をカレンへと向けた。
「何、これ」
「食べ物」
「は?」
「今慰めてやっただろうが、報酬だよ、報酬。俺はカラスの中でも心優しいほうだからパン一個ぐらいで勘弁してやる」
 カレンはクロの偉そうな態度に苛立った。
 無言で指を鳴らし、ノワールへ指示を出す。
「なっ、ぎゃあ! よせっ」
「今度こそ、食べちゃっていいよ。骨も残さないくらいにね」
「て、てめえ、覚えてろよっ」
 室内にはクロの叫び声が響いた。
 カレンはそれを無視して自室へと足を延ばす。
 カレンの家では代々犬を飼っている。理由としては番犬として、狩猟犬として役にたつからであるが、もっと大きな理由があった。
 それは――犬は差別しないから、である。


 カレンの予想した通り、父はカレンに家庭教師をつけ、彼女に色々なことを学ばせようとした。
 だが、家庭教師の探索は予想以上に困難なものだった。誰が好き好んで処刑人の子の家庭教師になろうとするだろう。例え自分が処刑人に対する嫌悪感を克服したとしても、処刑人の家で家庭教師をしているのが知られると、今度は自分が世間から爪弾きになるのである。
 そして、カレンの父からしてみれば自分の子供を預けるのだから、家庭教師は誰でもいいというわけにはいかない。それなりの人物でなければならない。だから、余計に見つけるのが困難になる。カレンの父は様々な人に頼んでみたが、ことごとく断られてしまっていた。
「カレン、そう悲しむな」
 カレンたちの一軒家の屋根が雨に打たれ音を立てていた。
 中々見つからない家庭教師が自分のせいだと思わせないように父は気を使い、カレンのことをよく慰めてくれていた。
「大丈夫です。父上は頑張ってくれていますから」
 だが、カレンは心の中で悲しみを抑えきれてはいなかった。自分は色々なことを学びたい、その意思はあるというのに教えてくれる人が見つからない。それが、カレンにとって悲しかった。
 父の顔にはどこか諦めの色が見え始めていた。カレンはこのまま誰も勉強を教えてくれる人が見つからない。そう思っていた。
 父がカレンの頭を撫でていた時、玄関が勢いよく開け放たれた。外は激しい嵐に見舞われていたようで雨と風が家の中に入り込んできた。
 そして、一人の男が雨と共に家の中へ入り込んできた。
「た、助けてくれっ!」
 男は全身を雨水に濡らしながらカレンの父にそんな言葉を投げかけた。服装から見てどうやら近所に住んでいる農民のようだった。
「一体どうしたのですか?」
 カレンの父が男に駆け寄り、事情を尋ねた。男は息を切らしながら切れ切れと言葉を紡いだ。
「はあ、神父様が病気になって、もう、どうにもならないんだ。力を貸してくれっ」
「神父様、ですか……」
「あの神父様、教会の論争に巻き込まれて追放されたらしいんだが、聖書を翻訳するまでは死に切れんとか言ってて。今までは俺たちが交代で面倒を見てきたんだが……頼む、助けてくれっ」
 男の言葉にカレンの父は全く持って上の空だった。
 もしかすれば、神父様に自分の家庭教師を頼み込むつもりなのかもしれない。カレンは思った。確かに、神父様と言えば家庭教師としてこれ以上の人材はいないだろう。
 カレンの父はずぶ濡れの男の手を力強く握った。
「分かりました。すぐに向かいましょう」
「あ、ああ、助かる。こっちだ」
 男はカレンの父の勢いに押され気味だったが、すぐに玄関を開けて父を案内しようとした。
 カレンは父が出て行こうとする直前に父の服の端を掴んだ。
「ん? どうしたカレン。いいから留守番してなさい」
「私も、行きます」
「何を言ってるんだ。外は見ての通り嵐だ。危険すぎる」
「ですが、私は、父上の仕事ぶりをこの眼に焼き付けておきたいのです」
「カレン……」
 カレンの父は何度か頭をかき、納得したようだった。
「分かった。では、急ぐぞ」
「早くしてくれっ。神父様が死んじまうっ」
 カレンの父は男に導かれ、扉の外に駆けだしていった。それにカレンも続こうとしたが、右肩に乗っていたクロがカレンに呟いた。
「雨は苦手だからなあ。俺は家で待ってるぜ」
 クロが羽ばたいてリビングに向かおうとするのをカレンは首根っこを掴んで制した。
「君も来るのっ」
「え、ええっ!? 嫌だ、離せっ」
 カレンはクロの言葉を無視して外へと飛び出した。外は予想通り激しい嵐でクロの言葉は殆ど聞き取れなかった。
 カレンは父に付いていくので精一杯だった。

「ったく、冗談じゃないぜ」
 嵐の中を潜り抜け、カレンたち一行は神父が療養を受けていた一軒家へとようやく辿り着いた。
 一軒家には荒く息を吐く神父とこの辺りに住む農民たちが何人も座りこみ、神父の安否を見守っていた。神父は藁で作られた布団に寝かされており、横にはおけの中にいっぱいの水がためられている。
 カレンの父は到着するや否やすぐに神父の元へ駆け寄り、無言で治療を始めた。カレンはそれを口を開けながら眺めるばかりだった。
 クロはカレンの横で身体を震わせ雨水を払うといつものようにカレンの肩へと乗っかった。
「高くつくからな」
「分かってるよ」
 カレンは父の仕事ぶりを見るので夢中だったため、クロにはおざなりな返事を返した。クロはカレンの態度にうんざりとするとカレンの父の手際の良さに感嘆の声を漏らした。
「しかしすげえな、お前の親父は」
「当たり前でしょ? 父上は医学の知識も豊富なんだから」
「てか、本当に執行人なのか? 実はどっかの医者だって言っても通用すると思うぜ」
「父上は凄いのよ……」
 カレンの家は代々医者を副業としていた。つまり、人を死に至らしめることを職業としている人間が、もう一方では、人の命を長らえらせることもしていたのであった。
 これは一見奇妙に見えるかもしれないが、色々な刑を執行してきた執行人はどこをどう叩けばどうなるか、どこが一番急所かといったことを体得し、人体の生理機能に詳しくなるのである。
 カレンが幼いころ父に見せられた本にはそういったことが事細かに記されていた。もっとも、カレンはまだその全てを理解できるわけではなかったが。
「あ、あの、神父様は助かるのでしょうか」
 神父を見守っていた農民の一人が心配そうな声でカレンの父に質問した。カレンの父は笑顔で言葉を返す。
「大丈夫です。私が来たからには必ず助けます。安心してください」
「お、お願いします」
 カレンの父は一層、真剣な顔になり神父の治療にあたった。
 カレンには父が何をしているのかよく分からなかったが父の一生懸命さはひしひしと伝わった。そして、父を目標に自分も頑張るんだという決意を新たにした。

 嵐が過ぎ去り、夜が明けた頃神父はようやく眼を覚ました。神父は五十代くらいの男性にカレンは見えた。顔の節々にある皺が気苦労の多さを感じさせたからだ。
「し、神父様っ。よかった」
 一晩中神父を見守っていた農民たちから歓喜の声が上がった。神父はゆっくりと身体を起こし、まだ虚ろな眼でカレンの父を見た。
「……あなたが、私を救ってくれたのですか?」
「ええ。ですが、私はその手助けをしたにすぎません。あなたの生きたいと願う意思の強さがこの奇跡を呼んだのです」
「あ、あの……」
 農民の中の一人、カレンの家へと駆けこんだ男が不安そうな声をカレンの父へ投げた。
「ん? どうかしましたか?」
「その、治療代のほうはいくらになるのでしょうか? 村人全員の有り金をかき集めてでも必ず払いますので」
「ああ、そのことですか。私は一般の方からはお金を頂かない主義なのです。もちろん、貴族様からはたくさん頂戴しますがね」
 カレンの父は笑顔を浮かべながらそんなことを言った。男はその言葉に胸を撫で下ろしたようだった。
「それで、神父様」
 カレンの父は浮かべていた笑顔を消し、神父の方へ向き直った。その眼はとても真剣なものだった。
「命を助けた見返り、というと失礼かもしれませんが、実はあそこにいる私の娘の家庭教師をしていただきたいのです」
 カレンの父は手でカレンのことを指示した。神父の眼はそれに従い、カレンの元へと向けられた。カレンはその瞬間、緊張のため意味もなく気をつけをしてしまった。
「カレン、こっちに来なさい」
 父に言われ、カレンはぎこちない足取りで神父の元へと赴いた。そして、父の横で正座する。
「家庭教師、ですか。お名前は何と言うのかな」
「ぶ、ブレア=カレンです。よろしくお願いします」
 カレンはまた意味もなく深々と頭を下げた。クロはというとカレンが歩き始めた辺りから、窓際の棚へと引っ越しを済ませていた。クロの溜息もカレンには届かなかった。
「ブレア……というと、あなたは」
「はい、処刑人を生業としております。職業柄、引き受けてくれる人が見つからず、今に至ります」
 カレンの父は深々と頭を下げ、土下座をした。カレンはここまで必死な父を見るのは初めてのことだった。
 神父は父の態度に一瞬驚いたが、すぐに干したての布団のような柔らかい笑顔を浮かべた。
「そう畏まりなさるな。私も教会を追放され世俗を離れたも同然の身。今更世間の目など、気にはいたしませんよ」
「……で、では」
「その話、お引き受けしましょう」
 カレンの父は瞳に雫を浮かべながら、勢いよく神父の手を掴み、上下に激しく振った。
「あ、ありがとうございますっ」
「ち、父上っ。神父様はまだ」
 父はカレンの言葉にハッとして両手を神父から離した。
「も、申し訳ありません」
「……い、いえ、いいのですよ。私はダミアンと言います。これからよろしくお願いしますぞ、カレン殿」
「は、はいっ。よろしくお願いしますっ」
 カレンの声が高く裏返って家の中は笑い声に包まれた。
 クロはただ一人、溜息を何度も零すばかりだった。



 あの嵐の夜からカレンの家庭教師はダミアンが務めることになった。
 ダミアンの教えは的確で、時折興味深いことも教えてくれ、カレンとしては大満足だった。比較してもいいものか分からなかったがアンディーの教えに引けをとらない。そんな感想をカレンは抱いていた。
「カレン殿、今学んでいることとは関係ないのだが、王という存在についてどんなイメージを抱いているかね」
 ダミアンは突然、カレンにそんなことを尋ねてきた。カレンはペンで書き進めていた手を止め、ダミアンのことを見た。
 いつもカレンと一緒にいるクロはというと勉強の邪魔だからということで今はノワールと遊んでもらっていた。多分、ノワールが一方的にクロをいじめているだけであろうが。
「王様、ですか?」
「ああ、そうだよ」
「この国の中で一番偉くて、絶対的な権力を持っている人、ですか?」
「そうだね。凄く模範的な解答だ」
 カレンはダミアンの態度に思わず首を傾げた。王についてはずっと前にダミアンは教えてくれていた。それを今になってぶり返すなんてどういうことなのかカレンには分からなかった。
「だが、今のこの国の王、クライブ様はとてもいいお方なんだ」
 カレンはそのことについてもダミアンからすでに話を聞いていた。
 この国、イルレオーネはクライブ、アラン=クライブの二代前に最盛期を迎えた。今は最盛期のつけが回って来て少々財政に苦しんでいるということもダミアンは教えてくれた。
「今は少々国の財政に苦しんでおられるが、グレイブ様は国民のことを一番に考えておられる。それを、忘れてはいけないよ」
「どうして、そんな話をするんですか?」
「カレン殿、あなたは革命的な思想について見たり、興味を持ったりしたことはないかね?」
「革命的な思想、ですか?」
 カレンは正直言ってダミアンの言葉の意味を上手く理解することができなかった。革命的な思想とは一体どのようなもののことを言うのだろうか。
「少々難しかったかな。つまり、普通の民衆が政治の表舞台に立てたらって考えさ」
「えっ!? そんなことが、本当に可能なのですか?」
「理論的はあり得なくはない。その根底には全ての人間は平等であるという考えがある。もしかしたら君たち一族も差別を受けなくなるかもしれない」
「差別を、受けなくなる……?」
 ダミアンの言葉はとても魅力的なものだった。自分がもし、差別を受けなくなったら、もしかすればアニエスともまた友達になれるのかもしれない。
 そんな希望がカレンの頭の中に浮かんだ。
「どうだい? 少し、興味を持ったかね?」
「い、いえ、そんな急には……」
「別にその考えを抱くこと自体は悪いことではない。隠すことはないよ。だが、それでも、国王陛下を蔑ろにすることは許されない」
「ダミアンさん……」
 ダミアンの表情は真剣なものだった。ダミアンはそのことに気が付くと慌てるようにカレンの頭に手を置いた。
「そのことだけは、忘れないでおくことだ。君が生きていく上で一番大事な事だからね」
 ダミアンはカレンの頭を優しく撫でながらそう言った。
 カレンはダミアンの言葉を心に止めておこうと、そう思った。


「ねえ、クロ」
「ん? なんだよ」
 カレンは玄関の先にある石畳へ腰を下ろしていた。陽はもうすでに傾いて家の周りの草原を綺麗なオレンジに染め上げていた。
 カレンは夕方になると毎日のようにここにきて夕陽を眺めていた。それがカレンの日課だった。
「どうしてカラスは夕方になると急に鳴き始めるの?」
「は? 何だ、急に」
「いや、ちょっと気になってさ」
「俺はそんなことしないぜ。まあ、どっかのバカが夕陽を綺麗だって思って感動してるんだろうよ」
「ふうん、そうなんだ」
 カレンは浮いていた両足をバタつかせ空を眺めた。青はすっかり、オレンジ色にすり替わっている。
「ねえ、クロ。今ならきっと私から逃げられるんじゃないかな」
「お前、やっぱどっかおかしいんじゃねえか?」
「だってクロ、ノワールに結構いじめられてるし、そんなに気分よくないでしょ」
 カレンは何の気なしにクロにそんなことを漏らした。このままクロが自分に縛り付けられているよりはこの広い空を自由に飛び回っていたほうがいいに違いない。カレンはそう思ったのだ。
 カレンの言葉にクロは溜息を吐き、続ける。
「そんなの、良くはないけどよ。俺はお前のことが気に入ったからここにいるんだよ」
「え……?」
「お前のことが気に入らないなら、お前に最初に頼み込まれた時点で逃げ出してるっての。少しは考えろ」
「……クロは、いいカラスだね」
 クロはカレンの言葉を訊くと照れ隠しをするように羽をバタつかせた。
「なっ、バカ言ってんじゃねえよ。俺はただ、冒険よりも安定した食料源をだな」
「ふふっ、分かってるよ」
 カレンの言葉を訊くとクロは諦めたようで不貞腐れたようにカレンの肩の上で身体を横にした。
「ったく、好きにしろってんだ」
 カレンはクロの態度にただ笑顔を零した。今一度空を眺め、カレンは綺麗だと心の中で思った。
 カレンが空を眺めている最中、クロの首が左の道へと向いた。カレンはそれを不思議に思い、眼を凝らす。
「どうしたの?」
「ありゃあ軍人だな」
 クロに言われてからカレンはようやくその姿をはっきりと捕えることができた。風のざわめきの中に馬の蹄の音が混ざる。
「結構なお偉いさんのようだぜ。面倒を起こすんじゃねえぞ」
「わ、分かってるよ」
 軍人は護衛もつけず、たった一人だった。胸に複数の勲章をつけており、一介の兵士にはとても見えない。一番に不自然だったのは軍人が街の方向から歩いてきたということだった。
 この道の先には何もない。あの軍人はどこに行くつもりなのだろうか、カレンには分からなかった。
 軍人を乗せた馬はカレンの眼の前でピタリと止まった。
「おい、娘」
 軍人はカレンにそう語りかけてきた。
 軍人は右の頬に十字の傷を受けていて、歴戦の勇士という呼称が似合いそうなものだった。カレンはそれに怯えることなく、答える。
「何でしょうか」
「お前はこの家の子か?」
「はい、そうです」
「そうか、ならば――」
 軍人は突然、腰からサーベルを抜き、それをカレンの眼前に突きつけた。カレンは驚き、眼を見開いた。
 サーベルは後数センチでカレンの鼻先に触れそうな距離でカレンは身動きが取れなかった。
「お前の父が窃盗の罪を犯した息子を自身で処刑したというのは本当か?」
 カレンは軍人の言葉に一瞬戸惑った。
 軍人の言葉は、事実だった。
 カレンには兄がいたが、それを処刑したのはカレンの父だった。
 執行人が差別される最大の理由は、処刑台で冷徹に人を殺し、眼を背けたくなるような残虐な刑を実行する人非人と思われるからだが、もう一つの理由に、極悪人と直接的接触を持つということがある。死刑囚の犯罪のおぞましさを死刑執行人も分かち持つかのような印象を人々は受けてしまうのである。
 そこで、執行人は、自分の普段の生活が人から絶対に後ろ指を指されることがないよう、道徳的に非難の余地がない生活を送るように身を律しなければならなかった。
 カレンの父はその典型だった。
 カレンの兄は実の父の手でその身を天に預けた。
 彼女にとっては思い出したくもないことだった。
 そして、カレンは軍人が含み笑いを浮かべていることに腹が立った。きっと興味本位でこの話を訊きに来たに違いない。カレンにはそれが許せなかったのだ。
「閣下、ご質問は実のところ、いささか突飛なものであると申し上げることをお許しください」
「お、おい、カレン」
「少し黙ってて」
 クロはカレンの耳元で彼女を律したが、カレンには無駄なことだった。
「恥辱と屈辱をさけるために自らの手を名誉で濡らすような父を持つこの私が、そのような好奇心から一族の秘密をお教えするとお思いですか?」
 カレンの態度は挑戦的だった。
 目と鼻の先に自らの死が迫っているにも関わらず、恐れはしなかった。父の名誉が傷つけられて黙っているわけにはいかなかったのだ。
「…………くっ、はははっ!」
 軍人は突然、高笑いを始めた。
 そして、カレンに向けていたサーベルを鞘の中へ収めた。
「いや、気に入った。気に入ったぞ娘。名は何と言う?」
「…………ブレア=カレンです」
「カレンと申すか。はははっ。命よりも父の名誉を取るか。くくっ、一端の宮廷貴族なんぞよりも気持ちがいいな。何、命を取るつもりはない。安心せよ」
 カレンはこの軍人のことがあまり好きにはなれず、終始無言のままだった。軍人は一人楽しそうに笑うばかりだった。
「まあ、お前が私に怯え、命乞いをするようであれば考えも変わっていたかもしれんがな。私はエリックだ。アロン=エリック。実は、死刑執行人という人種に興味があったのだ。お前の父にも会ってみたい、案内をしてくれんか」
「…………」
「ん? どうした?」
「おい、カレン」
 エリックを無視し続けるカレンにクロは不安げな声で呟いた。
「いいからここは案内しとけって。本当に殺されちまうぞ」
 クロの言葉を受け、カレンは重い腰を上げるようにエリックに言った。
「父上には何もなさらないのですよね」
「ああ、何もせん」
「……分かりました。こちらへどうぞ」
 カレンは仕方なしにエリックを家の中へと通した。
 カレンはまだ、エリックのことが好きにはなれなかった。

「ははっ、今宵は実に楽しい。いや、愉快愉快」
「そう思っていただけたのなら光栄です」
 カレンの父とエリックは何故か酒を肴に世間話に盛り上がっている最中だった。
 最初はエリックの失礼な態度のせいで非常に険悪な雰囲気だったにも関わらず、結局は二人は打ち解け、まるで旧友のような語り口調になっていた。
 カレンはまだエリックのことが好きになれず、父がエリックと楽しそうに話しているところを見ると少し不満だった。
 カレンは部屋の隅に座りこみ、未だエリックを睨みつけたままだった。クロはそんなカレンのようすに呆れながらも口を開いた。
「カレン、まだあのエリックって軍人のことが気に入らないのか?」
「だって、あの人父上のことをバカにしてたし」
「はあ、お前の父親好きには呆れるぜ」
 クロは飛び上がり、カレンの頭の上に居所を移した。
「俺はあのエリックって軍人、嫌いじゃないぜ」
「え? 何でよ」
「軍人にしちゃ、屈託のない感じだし嫌いになる理由もないだろ」
「そ、それは、そうだけど」
「考え過ぎなんだよ、お前は」
 クロの言葉と同時、カレンの父が気が付いたようにカレンのことを呼び寄せた。
「カレン、こっちに来なさい。そんな態度ではエリック殿に失礼だろう」
「む、分かりました」
 カレンは不満ながらも父の言葉には逆らえないと渋々立ちあがった。そして、二人の元へと到着する。
「カレンはもうエリック殿にご挨拶を?」
 カレンの父がエリックに尋ねた。
「ああ、先ほどな。いや、父に似て気概のいい娘だ」
「それは光栄ですな。私の大切な娘ですから」
 二人はそうして、大きな声で笑いあった。カレンはまだ不満で心が一杯だった。
「時に、先ほどから気になっていたのだが」
 エリックはそして、カレンの頭の上を指さした。
「その頭の上のカラスは一体どうしたのだ?」
「……この子は怪我をしているところを助けてそれから懐いてしまったのです」
「カラスがか? いや、それは珍しいこともあるものだ。カラスは知能が高く、人間に懐くことはないと訊いたがな。まあ、これも一重にカレンの気概のよさからかもしれんな」
「……呼び捨てにしないで下さい」
「こら、カレンっ」
 父がカレンを叱ろうとするのをエリックは制した。
「いいのだ。正直な子供は嫌いではない。どうやら私は嫌われているようだからな」
「私の娘がとんだ御無礼を」
「いいと言っておるではないか。では、その代わりと言うわけではないがあの大剣を触らせてはくれんか」
 エリックはそして、リビングに飾ってある大剣を指さした。
 カレンの背丈ほどもある大剣はブレア家の伝家の宝刀とも言うべき代物だった。入念に手入れをされ、鍔の部分の装飾が光り輝いていた。
 父は快くエリックの申し出を受け入れた。
「ええ、構いませんよ」
 カレンは正直に言って、父の態度に不満があったが先ほどの自分の態度を考えると大きく出ることができず、口籠るしかなかった。
 二人は立ちあがり、大剣の元へと足を進めた。
 カレンの父は大剣を軽々と手にとり、それをエリックへと渡した。
 エリックは大剣の感触に感嘆の声を漏らした。
「これは……凄まじい業物だな」
「我が家の伝家の宝刀です。斬首刑の執行の際には必ずといっていいほど、それを持っていきますので」
「私が処刑される時もこの剣で行うのか」
「……エリック殿。そのような悲しいことを仰らないで下さい。エリック殿はきっとそのようなことには」
「軍人など、いつ何時、どんな運命が待ち受けているか分からないものだ」
 エリックは剣を掲げながらそんなことをカレンの父に言った。
 カレンの父は残念そうな、悲しそうな表情を浮かべていた。
「何、この剣で貴公に斬られるのなら後悔することもないだろう。まあ、そんなことにならないように尽力するつもりだ。そう心配するな」
 その後は暗い話題もなく、楽しそうな笑い声の中、夜は更けていった。
 カレンは終始、不満を晴らすことはなかった。







 二章

 死刑囚解放事件からもう数年が経った。裁判所は民衆の多数の反対から判決を撤回することを余儀なくされた。
 カレンは自分にも何か罰があるに違いないと考えていたが、裁判所からは一向にそのような通知が届くことはなかった。
「おい、カレン」
 馬車に乗り込み、宮廷へと向かうカレンにクロは囁いた。前方にいる馬車の騎手には気づかれないように。
 馬車の外には視界の果てまでモミの並木道が続いていた。
 鮮やかな緑葉が星屑のようにきらきらと日差しを弾いている。真っ白な石畳は隙間もなく整備され、ごみはおろか石ころ一つ落ちておらず、通行人も殆どいなかった。
 この道は、イルレオーネの国の中枢、宮殿まで続く一本道だ。
「本当に宮殿なんかに行く気かよ」
「うん、そうだよ」
 カレンは今日、宮廷に向かわなければならなかった。
 執行人の給与というのは国から直接支払われる。だが、その給与がこの三カ月カレンの元に全くと言っていいほど支払われていなかったのだ。カレンは国の財政事情も知ってはいたが、このままでは自分が飢え死にしてしまうとようやく重い腰を上げたのだった。
 飢え死にする前にこのままでは借金のせいで牢の中に囚われてしまうという恐れもカレンにはあった。
 その昔は処刑人が自らの手で民衆から税金として給与を徴収していたらしいが、反感が大きかったそうだ。
 とにかく、早急にこの問題を解決しなければカレンにとって自分の命が危うかったのだ。
「俺はあんまり好きじゃねえけどな、あそこ。何か無駄に飾り付けてて居心地が悪そうだ」
「うん、私もちょっとそう思う」
 カレンはそして、馬車の外を眺めた。モミの木の上に一匹のカラスが止まっていた。
「そうだろ、じゃあよ」
 カレンはクロの言葉を遮るように言った。
「多分、クロは宮殿には入れないだろうから、ちょっと外で遊んでてよ」
「な、何だとっ!? お前、俺をあの犬っころと同じみたいに勘違いしてるんじゃねえか?」
「仕方ないでしょ? 給与がなきゃ、君のご飯だって買えなくなるんだから」
「っ、ちっ、分かったよ」
 クロはそしてカレンの肩で不貞腐れるように身体を横にした。
「その代わり、何か豪華なもん食わせろよな」
「うん、分かってるよ」
 カレンはそして、馬車の進行方向を眺めた。豪奢な宮殿はもうすぐ見える。

 馬車から降り立ったカレンとクロは宮殿の巨大さにただただ圧倒された。
 宮殿は外から見ればそこまで豪華絢爛というほどではなかった。赤みがかったレンガでできた壁面は重厚でどこか重々しい雰囲気を醸し出していた。とても巨大で近づきすぎていたカレンは一望できないほどであった。
「すごい……」
 先導する兵士に遅れる形となったが、カレンは立ち止り、噴水の袂で宮殿を見上げた。
 兵士はそんな子供のようなカレンの様子に訝しげな視線を向けていたが、カレンには見えることはなかった。
「おいおい、しっかりしろって」
 カレンを夢から覚ますようにクロが言った。
 カレンはクロに言われて慌てるように顔を赤らめた。
「じゃあ、俺はどっかで時間を潰してるからよ」
 クロはそう言って、カレンの肩から羽ばたいた。
「まあ、後ろからナイフで刺されないように気をつけるんだな」
「わ、分かってるよ」
 クロが青空に混ざり合って一点の黒い点となった。カレンはしばらく、茫然とそれを眺めていた。
「……如何なさいましたか?」
 兵士がカレンの様子を不審に思い、声をかけてきた。カレンは慌てて兵士の元へ駆け足をする。
「い、いえ、なんでもありません」
 噴水を抜け、カレンと兵士は宮殿の玄関へと続く階段へと辿り着いた。背中越しに兵士の嫌悪感のような何かが伝わってきてカレンは少し、悲しくなった。
「……本来ならば」
 兵士が階段を登る途中、突然声をかけてきたので、カレンは俯いていた顔を素早く上げた。
「本来ならば、大臣かそれに準ずるお方が対応するべき事柄なのでしょうが、今回は国王陛下直々にあなたに御対面したいという要望がありました」
「え? 国王、陛下がですか?」
 兵士の言葉にカレンは思わず首を傾げた。
 国王陛下が直々に自分に会いたいなど、一体どういうことなのだろうか。カレンには全く持って理解できなかった。
「私も、詳しい理由などは分かりませんが何分失礼のないようにお願いします」
「わ、分かりました」
 カレンはその時、ダミアンから教えられた言葉を思い出していた。

 宮殿の内部は、言うまでも無く財の髄が惜しみも無く使われて光り輝いていた。
 天井には様々な壁画が何枚も何枚も貼りつけられており、壁紙と見間違えるほどである。無数にぶら下がっているシャンデリアはまるで夜空に輝く星のように点々としている。カレンは改めてこの宮殿が別世界なのだと実感した。
 だが、同時にカレンは宮殿の内部と外の空気の違いも感じていた。宮殿の外の空気は動いているのに、宮殿内は旧態依然として、空気が淀んでいた。王家の人々は世の中が変わりつつあることにまったく気が付いていないようにカレンには思われた。
 ダミアンの教えによりカレンは王家をこの上なく尊重し、国王にも強い愛着心を抱いていただけに、カレンは不安をかき立てられた。
「こちらです」
 と、兵士はカレンのことをある一室へと案内した。巨大な扉はカレンの背丈の二倍ほどもあるものだった。
 宮殿は慣れない人間にとっては決して居心地のいいものではない。だだっ広くて、古めかしくて、厳めかしい。カレンは国王に会う前からもう気が重かった。
「失礼します」
 カレンは兵士に見守られながら、いや、見張られながらも重々しい扉をゆっくりと開け放った。
 扉の先にあった部屋はかなり大きなもので、黄金とクリスタルガラスでいっぱいだった。
 庭園に面した窓のところに一人の男が立っていた。
 豪奢な金の刺繍が施された藤色の服を身に纏い、頭の両側にカールさせた髪の房が垂れ、後ろの首のところで髪を紐で結んでいた。
 カレンはその男が国王陛下であると確信した。これが、二千万人のイルレオーネ人の頂点に立つ国王陛下なのだ――カレンは国王の尊厳さに打たれ、部屋の中に入っていく勇気が出なかった。
 国王、クライブはカレンのことに気が付くと庭園を見ていた身体を振り向かせた。緩く締めたネクタイが盛り上がるような筋肉をのぞかせていた。カレンはクライブが頑丈な体格をしているのを見て取った。短いキュロットを履いていたが、白い長靴下に包まれた脚がいかにも形がよく、高貴な人という感じを与えていた。
「陛下、ブレア=カレン殿をお連れしました」
「うん、御苦労であった。もう下がってよいぞ」
「はっ、しかしながら陛下」
「よいのだ」
 クライブは兵士の言葉を遮るようにして言った。
「はっ」
 兵士はそう言って部屋の扉を締め、外へと出ていった。兵士は出ていく最中、カレンに嫌悪を露わにした視線を向けていた。多分、自分が王になにかするのではないのかと疑われたのだろう。そう思うとカレンはまた悲しくなった。
「お初にお目にかかります、陛下。ブレア=カレンにございます」
 カレンは恭しい態度でひざまづき、クライブに対し言った。
「そのように畏まらなくてもよいのですよ。あなたは未払い分の金額を支払ってほしいという請願書を提出しましたね」
 クライブは庭園に時折、視線を向けながらカレンに言った。
「勘定を確かめ、支払いが滞りなく行われるよう命じておきました。しかし、国の国庫は今のところほとんど空っぽであなたの要求する金額にはとても届かないでしょう」
「感謝と敬意の念を込め、陛下のご厚意に御礼申し上げます。しかしながら、当方の事情について説明することをお許しくださるよう、陛下に謹んでお願い申し上げます。私の借金が非常に膨らんでしまったために、責権者たちはもはや辛抱しきれなくなり、私の自由すら脅かされているのでございます」
 クライブはカレンのほとんど額ずかんばかりの態度に自分に対する敬意と愛着が溢れていることを感じ取ったようだが、それでも、初めて執行人という人種を目の当たりにして僅かに身を震わせたのをカレンは見逃さなかった。
「分かりました。そのことについては命令書を出しましょう」
 クライブはそして、近くにあった椅子へと腰を下ろした。
「私は、あなたに一度会っておきたかったのですよ」
 カレンはクライブの言葉に驚きを隠せなかった。国王陛下がこんな処刑人の自分に会いたいなんてどんな理由があってのことなのか、カレンには全く分からなかったのだ。
「恐れながら陛下、それは何故でしょうか」
「あなたは、古代史に興味はおありですか?」
「古代史、ですか? 人並み程度には学んでおりますが」
「古代の王は処刑人に自分の一番親しい友人などを選んでいたのです。処刑と言うのは信頼する人物でなければ任せられないような難しいものなのでしょう?」
 カレンは王の言葉に一瞬戸惑った。こんなことを言われるなんて全く予想していなかったのだ。
「……確かに、そうですね。素人には決してできない芸当だと私は自負しております」
「処刑というのは、それ自体が国家の力の誇示に他なりません。力とは、剣です。その剣を預ける人物に面識がないなどおかしいとは思いませんか?」
「は、はあ……」
 カレンは正直言ってクライブのことを変わった人だな、と心の中で評価した。現代で、処刑人と親しく接しようとする王なんてカレンは訊いたことがなかった。
「数年前の解放事件では危険な目にあわれたようですね」
「まさか、陛下が私の罰をなかったことにして下さったのですか?」
「ええ、こんなことくらいしか私には出来ませんでしたがね」
「……重ねて、ご厚意に感謝いたします」
 カレンはまたしても深々と頭を下げた。ここまで自分が一国の王によくされていいのだろうか。カレンはもはや嬉しさを通り越して不安すら覚え始めていた。
「いいのですよ。……この国は今、変革の時を迎えているかもしれませんからね」
 クライブはカレンから視線を外し、庭園を眺めながらそんなことを呟いた。
 カレンは驚き、視線を上げた。
 カレンは、王が国の変化に全く気が付いていないとばかり思っていた。だが、それは間違いだったのだ。
「解放事件もその一端にすぎません。私は、国民の意志を尊重し、国民議会を設立することを先ほど決めました」
「そっ、それは本当ですか?」
「ええ、本当ですよ」
 カレンにはクライブの言葉が信じられなかった。
 国民議会が設立されるということは第三身分の人間、つまり貴族や王族以外の人間が国の政治に介入するということだ。
 そして、そのようなことが起きれば、当然のように王権の勢力範囲は縮小されるだろう。クライブは自分の利権よりも国民の意志を尊重すると言うのか。カレンは今、ダミアンの言葉が本当だと理解した。
「国民の意志を尊重する、というのも理由の一つですが、私はもっと大きなことをしたいのですよ」
「と言うと?」
「あなたにとっては誇りを傷つけられるようなことかも知れませんが、私は死刑制度をなくしたいのです」
「死刑制度を……?」
 カレンは王の言葉の意味をよく理解することができなかった。
 死刑制度というのは常識的に考えてあって然るべきものだ。カレンはそう思っていた。凶悪な殺人犯を生かしておいて得をする人間なんているずもない。
 自分のやっていることは正義なのだとカレンは信じて疑わなかった。
 だが、バッカスの時はどうだっただろうか。バッカスは誰がどう見ても悪ではなかった。私のやっていることは正義なのだろうか。カレンの心に迷いが生まれていた。
「確かに、凶悪な殺人犯などは生きている価値もない人種なのかもしれません。ですが、その人の罪を償う機会を永遠に奪取することが私には許されるのでしょうか。そんなことは神にしか出来ないことです」
「陛下……」
「冤罪や、ねつ造で、死刑に追いやられてしまう人間もいるかもしれません。それに……あなたのような悲しい運命を背負う人も必ずと言っていいほど出てきてしまう」
「悲しい、運命……?」
 カレンはクライブの言葉を繰り返し、言葉の意味を必死に理解しようと試みた。
 悲しい、運命。そう言われれば確かにそうなのかもしれない。だが、カレンは執行人という職業を悲しみに満ちた辛いものだと思ったことは一度もなかった。
 カレンはそこで父の背中を思い出していた。迷わず、自分に与えられた仕事を全うする父はカレンにとって今でも誇りだった。
「そんなことはありません。私は処刑人という職に誇りを持っています。失礼ながら陛下、今の発言は私と、先代の人間を侮辱するものに他なりません」
「……これは、失礼をしたようだ。申し訳ない。だが、私の死刑をなくしたいと思う願いは変わらないよ。専制王政の中ではきっとそれは難しい、だから私は国民の意志を尊重し、議会を開いたのだ」
 クライブはそして視線をカレンの元へと戻した。
 専制王政を成立させる上で必要な要素の中に王の力の誇示、というものがある。死刑と言うのはその一番簡単な方法だった。
 国家の権力によって人間が殺されるのだ。疑う余地もない、はっきりとした力だ。
 そんな中で死刑制度を廃止しようとするのは流石に無理があるだろう。だが、国民が政治の表舞台に立てば話も変わってくる。
 必要なのは力の誇示ではなく、国民の同意だからだ。
「……もうしわけありません、陛下。出過ぎた発言をここに陳謝いたします」
「構わないよ。君はもう、私の友なのだからね」
「……陛下」
「私の言ったことを少しでもいい、考えてみてはくれないか。君の、将来のことにも関係してくるからね」
「はっ、了解いたしました」
 カレンはそう言って、王から踵を返した。
 カレンの表情は、どこか悲しげだった。

「おう、カレン。この国の王はどんなやつだった?」
 噴水の広場まで来た辺りでクロがカレンの元へと戻ってきた。
 陽はすでに傾いていて、カレンの好きな夕陽が顔を覗かせていた。
「クロ、私が陛下と話してるとこ、見てたんだ」
 クロはそして、カレンの肩へとその居場所を移した。羽を折りたたみ置物のように居座る。
「ああ、暇で暇でしょうがなかったからな」
「それで、どんなやつだったんだ?」
「うーん、何か、変な人だった」
「何?」
 クロはカレンの言葉を訊き返すようにして言った。
「変な人って、どういうことだ?」
「だって、私のことを友達だって言ってたし」
 クロはカレンの言葉を訊くと驚いたように羽をバタつかせた。
「お前のことを、友達だって!? はあ、そりゃ相当の変わりもんだな」
「うん、でもいい人だと思うよ」
「何でそう思うんだよ」
「うーん、なんでだろ、何となく、かな」
「何となくってお前……そんなの全然答えになってねえぞ」
 カレンは夕陽の中を歩きながら続ける。
「多分、クロも会えば分かると思うよ。きっとね」
 片や王家に生まれ、片や処刑人の家に生まれた身分的に見ればまるで対照的な二人はこうして出会った。
 だが、両名ともに家系の伝統という呪縛から逃れられない、という点では共通点があったのかもしれなかった。


「なあ、カレン」
「何よ」
 クライブとの邂逅の後数日が過ぎ去った。
 クライブの言葉にカレンは色々と考えさせられる節もあったが、今は仕事のほうが大事だった。
 知識を蓄えるのも、剣の稽古を怠ることもカレンには決して出来ないことだった。
 カレンは今、二階の自室で本を読み、知識の収集に努めていたが、クロが退屈そうな声を上げていた。
「退屈なんだけど」
「ノワールと遊んできたら? 多分、寂しがってると思うわ」
「お前、やっぱ嫌なやつだな……」
「今は忙しいのよ。それとも、私の剣の稽古の相手でもしてくれる? ま、相手といってもクロは逃げ続けるだけだけどね」
「う、それは遠慮しておくわ」
 クロは真黒な羽をはばたかせ、クローゼットの上へとその身を移す。
 カレンの剣の腕は処刑人であるということも影響して一流だった。もし、クロが稽古に付き合ったりしたら一瞬のうちに真っ二つにされてしまっただろう。
「だったら、少し大人しくしててね」
「分かったよ。はあ、飯はまだかねえ」
 クロはそして、クローゼットの上にその身を預けた。暇になったら寝る、というのがクロの信条だったことをカレンは思い出した。
 その時、カレンは階段の先からノワールの鳴き声を訊いた。ノワールの足音は素早くカレンが今いる部屋へと向かってくるものだった。
 クロが怯えるようにその身を起こすのを見て、カレンは思わず微笑んだ。
「あ、あの犬っころ、今度こそ俺を食っちまう気じゃないだろうな」
「ふふ、そんなことないわよ。多分、手紙か何かじゃないかしら」
 開けっぱなしにしてあった扉からノワールは黄色い封筒を咥えて飛び込んできた。一刻も早く手紙を届けたいというノワールの意志はカレンに伝わった。
「よしよし、いい子ね」
 カレンはノワールから手紙を受け取り、その頭を撫でた。クロはそれを見ると安心したようにカレンの近くへと飛んできた。
 カレンは黄色い封筒を見て、眼を細めた。
 黄色い封筒はいつも高等裁判所から送られてくる書状だった。
 また、カレンは仕事をしなければならなかった。
「それ、また仕事か?」
 クロがカレンにそう尋ねた。
「そうね……」
 カレンはそして、封筒のせんを切り、中身の文書を取り出した。
 変わり映えしない丁寧な文字で罪状と罪人の名前が簡潔に書き記されている。カレンは読み進めていく中でその文面に目を疑った。
「なっ……なんで…………どうして……?」

「罪状――国王の利益を裏切った罪
 被告は国の発展のために欠かすことの出来ない植民地戦争において軍の総指揮官を任命されたにも関わらず、これに敗北。
 これは、国王、ひいては国民の期待を裏切る重大な問題であり、被告にはその責任をとり、ここに刑が執行されることを望むものである。
 刑罰――斬首の刑

 被告――――アロン=エリック」

 カレンは震える手で書状を握りしめた。少しでも気が緩めばカレンはそれを落としてしまいそうだったのだ。
 何故なのか。
 確かにカレンはあの軍人、エリックのことが好きではなかった。
 だが、敗戦の責任とは一体どういうことなのか。
 エリックは王の期待に応えようと必死になって戦争に臨んだはずだ。
 それなのに、それなのに何故、彼が死ななくてはならないのか。
(私が、あの人を――殺すんだ)
 カレンはそこで父とエリックの会話を思い出していた。

『私が処刑される時もこの剣で行うのか』
『……エリック殿。そのような悲しいことを仰らないで下さい。エリック殿はきっとそのようなことには』
『軍人など、いつ何時、どんな運命が待ち受けているか分からないものだ』
『何、この剣で貴公に斬られるのなら後悔することもないだろう。まあ、そんなことにならないように尽力するつもりだ。そう心配するな』

 恐らくエリックはあの発言を冗談のつもりで言ったに違いない。だが、それは現実となってしまった。
 カレンは自分の身体が震えるのを感じて両手で身体を押さえつけた。
 エリックは悪くない。
 エリックは悪ではない。
 カレンは、処刑を行う前には必ず自分は正義なのだと心に言い聞かせてから仕事に向かっていた。
 そうでなければ、カレンの心は壊れてしまうからだ。
 だが、今の自分は、正義、なのだろうか。
 決して思ってはいけないことだった。
 クロはカレンの様子を見て、心配するように肩に乗っかった。ノワールも悲しそうな鳴き声を上げている。
 クロはそして、カレンの手でくしゃくしゃになりそうな書状をなんとか読みとった。カレンがおかしくなった理由がクロにも分かったようだった。
「エリックっていや、あの軍人のことじゃねえか」
「…………」
 カレンの身体はクロの言葉に答えられない程に震えていた。
「……カレン、赤の他人の極悪人は殺せても知り合いの軍人の首は斬れないってか?」
「……そうじゃ、ない」
「じゃあなんだ」
「……エリック、さんは、何も悪いこと、してないよ……」
 カレンの声は、震えていた。クロはカレンの態度に呆れるようにして言った。
「確かに、悪いことはしてないだろうな。けどな、あの軍人にも誇りってもんがある」
 クロはカレンを無視して続けた。
「貴族様はどうだか知らねえが、軍人の上に立つ奴らってのは常に責任を背負いながら生きている。俺は妥当だと思うぜ」
 カレンはクロの言葉に思わず声を荒げる。
「それでもっ、生きていればどうにでもなるじゃないっ」
「じゃあ、もしもお前の親父さんがその戦争に参加して戦死したりしていたらお前はどうする。その怒りをどこにぶつけるんだ? 王か? いや、違うな。一番簡単なのは戦争の総指揮官に責任をとらせることだ」
「そ、そんな、私は、そんなことしないっ」
「言い切れるのか? 何にも経験していないお前に。言いきれるはずがない。あの軍人は自らの命を差し出しても勝利を掴みたかったはずだ。それが、負けたんだ。殺してやるのが一番なんだよ」
「そんな……」
 クロの言葉でカレンの身体の震えは止まった。そして、自分は子供で、何も知らないのだと言うことを悟った。
「お前も、命を顧みずにエリックに向かっていったじゃねえか。それと同じだ。判決はきっと翻らないぜ。あん時みたいなことはもう二度と起きない。そんなままじゃ、きっとまた失敗するぞ」
 カレンの心臓はクロの言葉によって高鳴った。
 処刑の失敗。
 それは執行人が一番恐れるものだった。
 処刑人の一族にとっては最大の恥さらしに他ならない。
 カレンは父の後を継いで、最初の仕事で失敗を経験していた。
 苦しみもがく死刑囚を眼の前にカレンの頭は真っ白になったのだった。
 父の名誉を傷つけて、死刑囚を意味もなく苦しめて、カレンにとっては一番思い出したくないことだった。
 ノワールが心配そうな鳴き声でカレンの足に鼻先をつけた。
 失敗するわけにはいなかった。
 エリックを無意味に苦しめるわけにはいかなかった。
 父の名誉を守らなければならなかった。
「うん……分かってるよ」
 俯きながら答えるカレンにクロは溜息をついた。
「はあ、本当に大丈夫かよ。俺にはこれ以上何も出来ないから自分でけじめをつけるんだな」
 クロはそう言って、外へと羽ばたいていった。カーテンが風に揺られ、光が部屋の中に入り込んだ。
 カレンは日が暮れるまで俯いたままピクリとも動くことはなかった。


 カレンの足取りは重かった。
 先導する兵士もカレンの異変を感じてか、時折立ち止まりカレンのことを待ってくれた。
 カレンはいい加減見見飽きた光景にうんざりとしていた。
 バッカスの時も、その他も、死刑囚は一概にこの地下牢へと幽閉される。永遠に続くかと思われる階段は永遠ではない。きっとこの先にはエリックがいる。
 この階段が、永遠に続けばいいのに。
 そんなことを思っている時点で今日の処刑が失敗に終わることは明白だった。自宅を出る際には覚悟を決めたはずだった。
 自分の行うことが正しいのだと自分に何度も何度も言い聞かせた。
 だが、いざこうして階段を下りているとカレンの覚悟は激しく揺れてブレていた。
「こちらです」
 兵士の声が薄らとカレンに聞こえた。
 カレンはもう意識すらはっきりとしていなかった。ふらふらとしてまるで今にも倒れてしまいそうな病人のようにも見えた。
 そして、カレンは今日処刑すべき人物の顔をその目で見た。
「エリック、さん……」
 数年ぶりに見たエリックは酷く痩せこけて、老いていた。立派だった顎髭も今では白が混ざり、痛々しかった。
 頬に刻まれた十字の傷がカレンにエリックのことを判別させる唯一の証拠となった。
 エリックはカレンの言葉を訊くとゆっくりとその顔を上げた。松明の火が揺れ動き、エリックの顔を照らした。
 エリックは何故か微笑んでいた。
「……よう、数年ぶりだなカレン。いや、お前は呼び捨てにされるのを嫌ったんだったな」
「別に、構いません」
「そうか、お前がここに来たってことはお前の親父はもう死んでしまったのか」
「はい……」
 カレンはエリックが笑顔でいられることが理解できなかった。これから自分が死ぬと言うのに、自分は何の罪も犯していないというのに、何故、何故、笑っていられるのだ。
 カレンは思わず、唇を噛んでいた。
「あの大剣を自在に扱えるくらいだ。剣の腕も相当だったろうな。うちの部隊に欲しかったくらいだ。はっはっはっ」
「何で……何で、そんな風に笑っていられるんですか」
 カレンは、叫んだ。
「これから死んでしまうんですよっ!? どうせなら私に皮肉の一つでも言ってほしかった。そうすれば、私は……」
「カレン」
 エリックはそして、カレンに言葉を放つ。
 優しく、とても優しく語りかけるように。
「私は言ったはずだ。あの大剣で斬られるのなら、後悔はない、とな」
「――――ッ!」
「私は軍人という職業に誇りを持っている。お前はどうだ、カレン。お前は父がやっていた今の役目に誇りを持っていないのか?」
「そ、れは……」
 カレンは涙が零れそうになったのを何とか堪えた。
 誇りは、ある。
 父のことは死んでなお、尊敬して止むことはないし、今の自分の立場を恨んだことは、ない。
 だが、カレンは今自分が行おうとしていることが何なのか、分からなかった。
「私は、分からないんです。あなたを殺すことが正義なのか。私は今、きっと間違ったことをしようとしています。私は……」
「正義なんて言葉の意味をお前の若さで理解しようとするのは早すぎるのさ」
 エリックはまたカレンに語りかける。カレンはただそれに聞き入るばかりだった。
「私ですら、その答えには辿り着けていないんだからな。戦争は、正義なのか。侵略が悪だというのなら、防衛戦は正義なのか。人を裁くことは、正義なのか。ならば法を犯してまで悪人を斬る者は悪なのか。誰にも、どんな博識な者にもその答えは見いだせない」とエリックは言った。「お前は私のことを悪ではないと言ったが、私はそう言い切れる自信がない」
「エリックさん……」
「私の手で、罪なき兵士たちが何人も死んだ。その見返りに私は地位を得た。私は、カレン、お前が思っているほどいい人間ではないのだ」
 カレンはエリックの言葉に何も言い返すことができなかった。
 それは、エリックの言葉もカレンの思いのように一つの答えだったからに他ならない。
「剣とは心だ。心が乱れれば剣も乱れる。私はお前に、せめてひと思いに斬られたい。それが、私の最後の望みだ」
 カレンはエリックに何も言葉を返すことが出来ずに、床の石畳を眺めた。
 口を開けば一緒に涙が流れてしまいそうだったのだ。
 処刑の時刻はこくこくと迫っていた。

「早くやれーっ!」
「殺せー!」
 カレンは処刑台の上で観衆の声を聞いた。
 大剣を持つ両手が微かに震えていた。
 四方八方が大量の観衆によって囲まれている。いつも一緒にいるクロも処刑の瞬間は傍にいない。
 誰も、カレンを助けてくれる人はいなかった。
 カレンは恐れを断ち切るように両手で大剣をギュッと握りしめた。
 観衆の声がさらに、さらに大きくなった。
 後は、カレンがエリックの首を斬れば全てが終わる。
 何故、出来ないのか。
 早くやらなければ今度は観衆の暴動が起きるだろう。エリックは罪を犯した宮廷貴族のように暴れることもなく、身動き一つしてはいなかった。
 簡単なことだ。
 この大剣で斬れないものはないし、カレンは斬首刑の執行を何度か行っていた。
 エリックの首を斬れば、それでいいのだ。

 ――本当に、そうなの?

 心の中の声を断ち切るようにカレンは首を激しく左右に振った。

 ――あなたのやっていることは、正しいの?

 喉が渇いて、背中からは冷たい汗が流れ出す。
 カレンは汗ばむ手で大剣を勢いよく振りかざした。
「いやあああああああッ!!」
 カレンの悲鳴と共に剣がエリックの首を切り裂き、その途上で、止まった。
「ぐあ――ッ!」
 エリックが声にならない悲鳴を上げる。
 カレンは、エリックの処刑に――失敗した。
 カレンはそして、我に返ったように大剣を握る手の力を弱めた。切断の途中で止まった剣は簡単に抜き去ることはできないし、かといってそのまま無理やりというのも難しかった。
 失敗した、失敗した、失敗した。
 エリックを無意味に苦しめてしまった。
 父の名誉を傷つけてしまった。
(全部、私が中途半端だったせいだ)
 カレンはショックで頭が真っ白になり、その場に倒れ込みそうになった。
 その時だった、
「ぐっ、あああああああッ!」
 エリックはその腕力で自らの手を縛りつけていた鎖を断ち切った。
 そして、カレンが手放しそうになっていた大剣を掌に血を滲ませながら力強く掴んだ。
 そして、カレンにだけ聞こえるような声でエリックは囁いた。
「カレン……」
 カレンはふらつくその身体でエリックの言葉を訊いた。
「失敗なんてものは誰にでもあるものだ、気に病むことはない。……お前の親父もあの世できっと理解してくれるはずだ……早く、自由の身になれるといいな……」
 エリックはそして、自らの手で大剣を押し進めた。

 ――遂に、エリックの首は籠の中へと転がり落ちた。

「わ、私……」
 カレンは大剣をその場に落とし、処刑台の上に座りこんだ。
 観衆から歓声が沸く。指笛と太鼓の音が混ざり合う。
「カレン――ッ!」
 近くを飛行していたのだろうか、クロがカレンの倒れた瞬間傍に駆け寄った。
 もう、カレンには何も分からなかった。
 カレンはそのまま、闇の中へと意識を手放した。


「大変だったようですね。その後は何もありませんでしたか?」
「ご心配をおかけして申し訳ありません、陛下。今はこの通り、五体満足でございます」
「そうですか、よかったです」
 カレンは再び、王に謁見を求めていた。
 エリックの処刑から数日が経った。
 カレンが気を失ってからすぐに周囲の兵士たちがカレンを医者のところへ連れて行ってくれた。精神的に大きな負担がかかっており、そのショックが大きな原因だろうと、カレンは医師から話を聞いた。
 カレンはそしてクロにかなり叱られた。中途半端な気持ちで処刑なんてしようとするからこういうことになるんだと。
 全く持ってその通りだと、カレンは思っていた。
 カレンはこの数日間、答えを見つけられずにろくに夜も眠れないような毎日であった。そんなカレンが答えを求めてやってきたのは、この国の王、クライブの元だった。
 相変わらず、黄金とクリスタルガラスでいっぱいの部屋の中で、王は庭園を眺めていた。カレンはやはり、この王が変わり者だという思いを強くした。
「……陛下」
「ん? 何ですか?」
 カレンの言葉に王は視線をカレンへと戻した。
「私には分からないのです。何が正義で、何が悪なのか。陛下、私は……悪の化身、なのでしょうか」
 カレンは悲痛な叫びをクライブに訴えた。
 クライブが的確な答えを返してくれる保証なんて欠片もありはしなかった。
 あのエリックでさえ答えには辿り着いていなかった。だが、カレンには王ならば、この変わったイルレオーネの王ならば、何か自分を導く言葉を与えてくれるのかもしれない。そんなことを思っていた。
 クライブはカレンの言葉を訊くとしばらく考えるようにしてその口を開いた。
「それに答えるのはとても難しいでしょうね。人が虎を殺そうとする場合には、人はそれをスポーツだといい、虎が人を殺そうとする場合には、人はそれを獰猛だという。罪悪と正義の区別も、そんなものかもしれませんね」
 カレンはクライブの言葉に正直なところがっかりとしていた。やはり、正義と悪は曖昧で、それ以上の回答は得られないのか。カレンが、そう思いかけた時だった。
「ですが」
 おもむろに、クライブは口を開いた。
「こんな問いかけもあります。カレンさん、もしも、この世界よりもずっと大きな天秤があってその片方に世界全ての喜びを、片方には世界全ての憎しみを入れたとしたら、それはどちらに傾くと思いますか?」
「えっと、それは……」
 カレンは王の問いかけに明確な答えを見つけることができなかった。喜びと憎しみ、どちらの方がこの世界の中で多いかなんてカレンには分からなかった。
「難しいでしょうね。答えは導くことができません。何故ならば、それは、最後に入れ忘れたあなたの心で決まるからです」
「……私の、心」
「自分がしていることが正義なのか、それとも悪なのか、それを決めるのは自分自身の心ではないでしょうか。私にはこんなことしか言えませんがね」
 カレンは王の言葉にハッとした。
 私は一体何を迷っていたんだろうと。
 答えは、案外すぐ近くにあったのだ。
「陛下、お答えいただき、感謝いたします。私はこの問いかけから逃げません。私はいつか、天にいる父にもはっきりと言えるような答えを見つけてみせます」
 クライブは、カレンの言葉を訊くと微笑んだ。カレンはまるで父のような優しい笑みだと思った。
「そうですか。これからも、このような問いかけをあなたは迫られることになるでしょう。ですが、その答えをあなた自身で見つけられるのなら、それはきっと最高なものになるでしょうね」
 クライブの笑顔はカレンにとってとても光輝いて見えた。
 カレンは心の中で密かに変わった人、というクライブの評価を改めたのだった。







 三章

 大の大人が両の手を精一杯伸ばしたところで一枚の窓の端から端まで届かない、そんなひどく大きな出窓から明るい陽の光が差し込んで、一枚の絨毯を照らした。
 豪奢な絵画が飾られた広い部屋には二人の男性がいた。
「チェックです」
 かつんと白とビショップを長い指で動かして、まだ年若い青年が言った。
 太陽の光と、大きなシャンデリアの光を反射する髪は美しい金。精悍な体つきだが青の瞳が優しげな、どこか少年の色を残す青年だった。
 向かいに合わせてつくりのいい椅子に座るのは、灰色の髪をした、初老に差し掛かった男性。
 男は髪と揃いの色素の薄い眼球を盤上でついと動かした。大理石を削り取って作られた黒色のルークを走らせて、動揺もなくビショップをとる。
「これから、この国はどうなるのですか?」
 青年がポーンをずらしながら言う。
「そうだな」
 チェスの盤から顔を上げずに男は言う。
「まあ、概ね私の思惑通りに事は進んでいる」
 男は硬い皮の指を動かしてナイトを進めた。
「チェックメイトだ」
 青年はいつの間にか逆転されていた盤上を信じられないと言った様子で舐めまわすように眺めた。
 キングの周りはもうすでに取り返しのつかないことになっていて青年はそれが分かると、溜息を吐いて背中を椅子の背もたれへと押しつけた。
「いやはや、ジョゼフ殿、完敗です」
「ふっ、私にチェスで勝とうなど、十年は早いぞ」
 ジョゼフは自身の勝利に酔っているのか得意げに自分の顎鬚を撫でた。
「惜しいところまではいったのですがね」
「あんなものは私の予想の範囲内だ。まだまだ甘いのだよ」
 ジョゼフはそして、椅子に座っていることに疲れたのか出窓へ向かい、立ちあがった。
「時にジョゼフ殿、思惑通りとは一体どういうことでしょうか」
 ジョゼフの背中に向かって青年は問いかけた。ジョゼフは青年へ含み笑いを浮かべながら答える。
「国民議会は成立した。あのお人よしな王のことだ。きっと承諾すると私は読んでいたよ」
 ジョゼフの含み笑いが段々と大きくなる。
「今議会は少しずつだが王権を縮小する方向へ動いている。いいころ合いだとは、思わんか?」
 ジョゼフはそして、青年へと振り向いた。青年はジョゼフの表情に一睡の恐怖すら覚えた。悪だくみをする者の笑顔とは得てして醜いものである。
「ど、どういうことでしょうか」
「そろそろ、目障りな国王陛下にはご退場願おうと思ってなあ」
「なっ、そのようなことが、本当に可能なのですか?」
 青年は椅子から身を乗り出してジョゼフにそう尋ねた。青年の瞳には希望のような、悲しみのような、迷いの色が滲み出ていた。
「可能だよ、ラウル。私が不可能なことを言ったことがあるか?」
「い、いえ、ありません」
「そうだろう? 革命はもう最終段階まで進んでいる。平和な革命の時代は終わりを告げるのさ」
 ラウルはジョゼフの言葉を心の中で反芻した。
 平和な革命。
 確かにこの国は緩やかに、そして穏やかに変革をしていた。
 王と共に、国民が一丸となって国をいい方向へ動かそうと必死だ。平和な革命と言ったジョゼフの言葉は今の状況を説明する的確な言葉であると青年は思った。
「王は今、自身の権利を段々と失っている。私ならば、我慢できないであろうなあ、今までは言葉一つで出来ていたことが出来なくなるのだぞ? 私ならばきっと、革命を止めようとする」
「ジョゼフ様、まさか……」
 ラウルはジョゼフの言わんとしていることを理解した。
「存在しないものは作りだすだけだ。王には地方の親類の王家に救援を頼んだという濡れ衣を被ってもらう」
「なっ――」
 ラウルはジョゼフのことを信頼し、崇拝していた。だが、今ジョゼフが行おうとしていることはきっと間違っている。
 間違ったことを正そうとしている自分たちが間違いを犯してはならない。
 ラウルは初めて、ジョゼフに反抗し、言葉を紡いだ。
「ジョゼフ殿、それはなりませんっ。証拠を捏造するなど、そのような……」
 ジョゼフはラウルをなだめる様に優しい声色で唇を開く。
「ラウル、私の言うことをよく聞いてくれ」
 ジョゼフはそして、ラウルの元まで歩み寄り、両手を肩へと置いた。
「確かに、私の行うとすることは悪、なのかもしれない。だが、誰かが罪を犯さなければならないのだ。歴史はいつだって私のような犠牲者を糧にして形作られている。お前の剣の腕前は一流だ。私に協力してはくれまいか」
「ジョゼフ殿……」
 ラウルはそして、自らの記憶を掘り起こした。
 ラウルの父はかつて腕の立つ名医だった。
 だが、ある日、教会からこやつは魔女だといらぬ疑いをかけられた。
 ラウルの父は魔女ではなかった。魔法のように何人もの人の命を救ってみせたが、決して悪ではなかったのに、父は何故死ななければならなかったのか。
 ラウルはその後、教会がその利権を保護するために魔女狩りと称して医者を殺して回っていたという事実を知った。
 許せるわけがなかった。
 教会も。
 おかしなこの国も。
 止められたはずの王も。
 ラウルはそして、この国を変えたいと願った。そこで、ジョゼフに出会ったのだ。
 ラウルは、迷いを断ち切るように勢いよく顔を上げて声を発した。
「分かりました。元よりこの身と剣はあなたの理想と共にあります」
「お前が私の味方で本当によかったと私は思っている。ありがとう……」
 ジョゼフはそう、ラウルに呟いた。
 街の外れの一室でラウルはその剣の覚悟を新たにしたのだった。


「それでは、ブリュノ=ジョゼフ議員、発言してください」
 ジョゼフは議長の言葉を訊くと、すっと椅子から立ち上がり発言席の前に立った。
 国民議会は週一で毎回行われていた。
 国の中で一番広いであろう、この議会場のホールには沢山の国民たちが集っていた。ここに入り切ることができず、外に溢れているほどである。
 真赤な絨毯が敷き詰められ、議員たちが議長を中心に円形のホールの中でジョゼフの発言を待っていた。
 議会はもう終わりを告げようとしていた。議論すべき法律の採択や、これからの方針も定まり、後は前々から要請されていたジョセフの意見を待つばかりだった。
 ジョゼフは議長ではなく、議員たちでもなく、柵の向こう側にいる国民たちに向かって意見を述べる。
「私は、私は――この国の王、アラン=グライブを悪質な売国奴としてここに告発します」
「なっ、何だとっ!?」
「そんなっ」
 聴衆の国民たちがざわめく。
 議長の制止の言葉も無意味に終わり、ざわめきは止まる様子をみせなかった。
 国王が?
 いや、そんなまさか。
 国王は我々のために議会を開いてくれたのだぞ?
 いや、だがしかし……。
 疑惑の根は国民たちの心の中でしっかりと根差し、広がっていく。
 ジョゼフはそれを見て、笑みを零すことを止めることができなかった。
 議長は聴衆を収拾することを諦め、ジョゼフに発言を続けさせる。
「ジョゼフ議員、続きをお願いします」
「国王、アラン=グライブは当初、国民の熱意に観念し、この議会を設立することを容認しました。ですが、議会が進むにつれ、自身の利権が奪われることを嫌い、近隣の諸侯に救援を求め、革命の思想を根絶やしにしようとしました。これは国民、ひいてはこの国を裏切る悪質で卑劣な行為に他なりません」
「異議ありっ!」
 と、ジョゼフの右前方に座りこんでいた議員の一人が叫び、勢いよく立ちあがった。議員はまだ年若い青年だった。青年の言葉にジョゼフは思わず顔をしかめた。
「バッカス議員、発言をどうぞ」
 議長が、バッカスに発言を許す。
「ジョゼフ議員の発言には全く持って根拠がありません。これは国王に対する重大な侮辱に他なりませんっ」
「証拠なら、ありますぞ」
 ジョゼフはバッカスの言葉を遮るように言葉を紡いだ。
「なん……だと……?」
 バッカスが言った。
「ほう? ジョゼフ議員、証拠があるのですか?」
 ジョゼフは議長の言葉を訊くと、得意げに懐から一枚の書状を取り出した。
「これは王から近隣の諸侯に対して救援を求めた書状であります。私はこれを発見し、王の罪を認めざるを得なくなったのです」
「そんなものは捏造ですっ。王がそんなことをするわけが」
「バッカス議員の発言を却下します」
 議長はバッカスをなだめるように言った。
 バッカスは自分の前にあった机を叩いて、叫んだ。
「何故ですかっ! その証拠が本物だと言う証拠は……」
「証拠もなしに、ジョゼフ議員の証拠を偽物だと否定するあなたのほうがジョゼフ議員を侮辱しているのではないですかな」
「そ、それは……」
「私としてはこれは後ほど厳粛に議論すべき事柄だと考えます。……最後に、陛下、何か仰るべきことはありませんか?」
 議長は王に発言の機会を与えた。
 今まではあらゆる者よりも上に立っていた王もこの議会では平等な存在だった。
 議長と同じ高さにある椅子に腰を下ろしながらクライブは眼を閉じ、口を開いた。
「そのような事実は私の記憶の中に存在しません。そんな書状も私は見たことがない」
「分かりました。それでは本日の議会はこれにて閉会とする」
 議会は議長の言葉を最後に閉会となった。
 ジョゼフは誰にも気づかれないよう、笑みを零した。
 聴衆の動乱は衰えをみせることはなかった。



「う、うわあ、止めろっ!」
 カレンの家の外にある草原の中でクロは悲鳴を上げていた。
「うん、いいよいいよ」
 クロはカレンが振りかざす大剣を先ほどから紙一重で避け続けていた。恐らく、その九割がまぐれではあるが。
 剣の稽古につき合ってほしい、というカレンの要請にクロは快く答えた。カレンがここ数日の間落ち込んでいたこともあって余裕だろうとクロは踏んでいたのだろう。だが、カレンの剣は迷いがなく、強いものでクロは上空に飛び、逃げる暇もなく剣を避けるばかりであった。
 止むことがない、剣撃の雨にクロの羽が草原に一つ、また一つと落ちていく。
 一緒について来ていたノワールは日向ぼっこをしながら草原に寝そべっていた。クロはそんなノワールを見て、恨めしげな視線を投げていた。
「ほら、よそ見してると危ないよっ」
 カレンが大剣を大きく振りかぶった。クロは間一髪それをかわすと、宙へと大きく飛び上がった。
「ちょっとー、そんなところまで飛ばれたら稽古にならないじゃない」
「何がだっ。こんなことやってたら命がいくつあっても足りねえっての」
「でも、クロがいいって言ったんじゃん」
「あれはお前が落ち込んでると思ったからだ。ったく、こんなに元気だったら引き受けるかっての」
 カレンはいくら言っても降りてこないクロをなだめようと仕方なく大剣を背中にかけてあった鞘へと収めた。
「分かったよ。もうやらないから」
「ほ、本当だろうな……」
 クロは恐る恐る、その高度を下げてカレンの肩へと近づく。クロはカレンの笑顔に不信感を抱いたようだったが、剣撃を避け続けたため、飛んでいるのが辛くなったのだ。
 力なく、カレンの肩へと足を下ろす。
 カレンはそれを確認すると草原へと腰を下ろした。
「はあ、もういい加減疲れたぜ……」
 クロは両翼を地面へ向けて垂れた。カレンはその様子を見て思わず微笑んだ。
「何言ってるのよ。あんなのちょっと手を抜いてあげたくらいなんだから」
「な、何っ!? ……お前には毎度驚かされるぜ」
 カレンはそして、草原に腰を下ろしながら空を眺めた。雲ひとつないいっぱいの青空が広がっていた。
「それにしても」
 クロがカレンに言う。
「なんか色々ふっきれたみたいだな。あの王に謁見してからか?」
「うん、そうだね」
「変わり者だってお前は言ってたけど、なんだ、お前をふっきれさせるくらいだから実は相当な名君なんじゃねえのか?」
「うん、クライブ様はきっと名君だよ。私はあの人のためなら迷いなく剣を振えるよ」
 カレンは視線をクロへと移した。真黒なクロの身体もカレンにとってはどこか愛らしく思えた。
「俺のことを斬るってなってもか?」
「クロはカラスじゃん。もし、クロが悪さをしたら私が真っ二つにしてあげる」
「なっ、お前、やっぱり血も涙もねえなっ」
「ふふ、冗談だよ、冗談。クロがそんな悪いことするはずないよ」
 カレンの言葉にクロは息を吐いた。
「いいや、分かんないぜ。俺はずる賢いカラスだからな」
「それでも、そう思うのよ」
 カレンはそして、背中にかけてあった大剣を鞘ごと外し、草原の上へと寝かせた。カレンは草原の上に仰向けになって寝そべった。
 クロはカレンから離れ、宙を舞った。
「なあ、王にはなんて言われたんだ?」
「秘密」
「んだよ、教えてくれたっていいじゃねえか」
「多分、クロに言ったって分からないよ」
「何だとっ」
 クロはカレンに抗議するように両翼をバタつかせた。
「お前、遠回しに俺がバカだって言ってるんじゃねえだろうな」
「違うよ、多分、この感覚は人間にしか分からないことだから」
「なんだそりゃ。相変わらず、お前の言ってることはよく分からねえな」
「いいじゃん、それでも」
 カレンはまた、青空を眺めた。
 その時だった。
 ノワールが片耳を震わせて、勢いよく立ちあがった。
 そして、まるで侵入者が現れた時のように激しい声で鳴き始めた。
「ノワール、どうしたの?」
 カレンはノワールの異変に気が付くと、身体を起こした。そして、ノワールへと視線を動かそうとする途中で、それを見た。
「何……あれ?」
 サントハイムの街の方角から、灰色の煙のようなものが上がっていた。
 宴か、何かだろうか。
 カレンは一瞬そんなことを考えたが、今街ではそんなことをする理由などない。
 ならば、あの煙は一体何だ。
 煙は止まることなく天へと昇って行った。
 カレンが見ている中で煙の数は一個二個とその数を段々と増やしていった。
 カレンはようやく事の重大さを悟った。
「カレン、ありゃあ……」
 クロが宙に浮いたまま唖然とした声で言った。
 ――暴動だ。
 あの煙は恐らく、建築物が焼き討ちにされた際に出てきたものだろう。カレンはそう思った。
 だが、何故だ?
 確か今日は国民議会の開催日だったはずだ。国民一丸となって政治を推し進めようとする日に暴動など、一体どういうことなのだろうか。カレンには理由が分からなかった。
「クロ、ちょっと様子を見てきて」
「わ、分かった。だが、お前はどうするんだ?」
「私も行く。適当な所で合流しよう」
「……分かった。でも、無理はするなよ」
「うん、分かってるよ」
 クロはそして煙の方角へと飛び立っていった。
 カレンは草原に置いてあった大剣を鞘ごと持って勢いよく立ちあがった。
「ノワール、一緒に来てくれる?」
 ノワールは言われるまでもない、と言った様子で大きな声で鳴いた。
 カレンはそれが頼もしくて、嬉しくて笑顔になっていた。
「ありがとう……じゃあ行くよっ」
 カレンはノワールと共に街へと駆けだした。
 カレンは暴動の理由に一つの可能性を思い描いていた。だが、それを無意識の内に掻き消していた。


 カレンは街の入り口に立った時、激しい音を聞いた。警戒を告げる大砲の空砲が鳴り轟き、早鐘が乱打されていた。
 街の中に数か所設置されていた拘置所に市民たちが群がってそこに火をかけていた。
 街の中には土ぼこりが舞っており、カレンは思わず目を細めていた。
 誰も。
 誰も足を止めることなく走り続けている。
 激しい音の中に悲鳴と怒声が混ざり込んだ。
 カレンは、この街で一体何が起こっているのか全く分からなかった。
「な、何よ、これ……」
 カレンは思わず、そう呟いた。
 カレンはそしてあることに気が付いた。動乱を止めるべき兵士がただの一人として存在していなかった。
 一体、何がどうなっているのだろうか。
「カレンッ!」
 呆然と立ち尽くすカレンの元へクロがもの凄い速度で近づいた。
 カレンはハッとしたようにクロのほうへ振り向いた。
「クロ、これは、一体どうなって……」
「どうやら、王が幽閉されたらしいな」
 カレンはクロの言葉に驚きを隠せなかった。
 ――クライブ様が、幽閉。
 意味が分からなかった。
 理解できなかった。
 何故そんなことになっているのか。
 とにかくカレンは理由が知りたかった。
「どういうこと?」
「今日の国民議会で王が他国の王家と通じているっていう証拠が提出されたらしい」
「そ、そんなこと、あるわけが……!」
 カレンはクライブが幽閉されたということで普通の状態ではなくなっていた。
 焦りからか、今にも事実を伝えるクロに掴みかかっていってしまいそうな勢いだった。
 クロはカレンの言葉を遮るようにして言った。
「落ちつけっ。王が幽閉されたってのは事実だ。ついでに王党派の僧侶や軍人までとっ捕まった。そして、何で今こんな状況になってるかっていうとな、牢獄にぶち込まれた王党派のやつらが反乱を起こそうとしてるって噂が流れたらしい」
「そ、そんなことが……」
 カレンはそしてもう一度街の様子を眺めた。
 確かに焼き討ちが行われていたのは街にあった監獄だけであった。
 カレンはその光景に思わず身震いした。
 軍人が一人、数人の男たちに囲まれながらピストルで胸を打たれ、糸の切れた人形のように動かなくなった。
 だが、そんなことよりも驚くべきことはピストルを持った人間が中肉中背で腰に前掛けをつけたごく一般的な商人だったことだった。
 商人は軍人の死体をぐりぐりと足で踏みにじった。

 ――何で?

 カレンはふらつく身体を何とか留めた。
 何で、何で、あんな普通の人までが、人を、殺している?
 何で、何で、何で。
「――カレン、しっかりしろって」
 クロの言葉でカレンは我に返った。
「う、うん……」
「今、あいつらがやってるのは簡易裁判ってやつらしい」
「簡易、裁判……?」
 カレンはクロの言葉をただ繰り返した。
「まあ、裁判って言っても王を信じるかって聞いて、いいえってんなら生かす、はいっていうんなら……ってことだ」
 そんなことが許されるのか。
 許されるわけがなかった。
 カレンは複数の音を耳で捕えた。
 こんな簡単に人の命が失われていいわけがなかった。
 カレンはもう一方の思考で考えた。
 もしかしたら、この状況が人々に人を殺すことへの恐怖心を和らげさせているのかもしれない、と。
 動乱の中で、皆同じようなことを行っている状況ならば、ピストルを掴む手は握力を増すだろう。
 誰も、助けてくれはしない処刑台の上とは全く持って話が違うのだ。
 そして、こんなことをしていていいわけがないと心の中で強く思った。
「カレン、止めに行くのか?」
 クロはカレンが鞘から大剣を引きぬくのを見て、尋ねた。
「うん、当たり前。こんなこと許されるわけがないよ」
「バカかお前はっ」
 クロはカレンを制するようにして言った。
「今そんなことをしたらお前も殺されちまうぞ。やつらは今精神的におかしいんだ。お前がどうこうできる状況じゃないっ」
「で、でも……」
 その時カレンは、激しく鳴り響く鐘の音の中から聞きなれた声を鼓膜で捕えた。
 カレンは、その方向へゆっくりと首を動かした。
 まさか、まさか。
 そんなはずは、なかった。
「ダミアン、さん……」
 カレンはその網膜で数人の男に囲まれ、膝をつくダミアンの姿を捕えた。
 反射的にカレンの身体が動き出した。
「――――ッ!」
「お、おい、カレンッ!」
 カレンはクロの制止も聞かず、駆けだした。
 ダミアンを死なせるわけにはいかなかった。
(そんなの、ダメだよっ)
 カレンはダミアンと過ごした日々のことを思い出していた。数年ではあったが色々なことを教えてくれたダミアンはカレンの心の中で今でも立派な師であった。
 彼を殺すわけには、いかなかった。

「おい、神父さまよ」
 柄の悪そうな青年がライフルを肩にかけながらダミアンに尋ねる。
 ダミアンは青年を睨みつけたまま一歩も身を引くことはなかった。
 死よりも大事なことがダミアンには見えていたのかも知れなかった。
「最後の問いだ。よーく考えて答えるんだなあ」
「…………」
 ダミアンは密かに自分の前に殺されていた僧侶に祈りを捧げていた。
 ピストルの音と激しい鐘の音がダミアンには耳ざわりだった。青年は自分のことを無視し続けるダミアンに憤慨し、その胸倉を掴み上げた。
「おい、聞いてんのかジジイッ!」
「ぐっ……お前の言葉など聞く意味もない。どうした? 最後の質問とやらはまだか?」
「……てめえ、今すぐにでも死にたいらしいな」
 青年はそしてダミアンの口の中にライフルの銃口を押しあてた。
 ダミアンはようやく自身の死を確信した。
 その時だった。
「――止めてッ!」
「あん?」
 青年は突然聞こえた声にライフルをダミアンの口から引き抜いた。そして、声の主へ視線を移した。
 ダミアンもそれに準じて、視線を移した。
「カレン、殿……」
 胸倉を掴まれているせいか、掠れた声でダミアンは一人そう呟いた。

「止めて下さい。何で、何でこんなことをしているんですか」
 カレンは必死に青年にそう訴えかけた。息を切らし、カレンは手に汗を握っていた。
 青年はカレンの言葉を訊くととても不思議なように周りの男たちと顔を合わせた。
「何で、だと? こいつが王を心酔してるバカだからに決まってんだろうが」
 青年は至極当然と言った様子で答えた。
 カレンは青年に怒りを抱き切れずに、ただ身震いした。
 この人も、きっと被害者なんだと、私が救わなければならないのだと。
 そんな思いばかりが先行し、カレンは焦っていた。
「そんなのおかしいですっ。ダミアンさんは、何も悪いことしてないじゃないですかっ」
「ああ?」
 青年はダミアンの身体を手放した。
「おい、ガキ。まさかお前もこのジジイと同類か、だったら……」
「お、おい、ちょっと待て」
「何だよ」
 青年の脇に立っていた男は何かに気づいたように青年へと耳打ちをした。青年は男の言葉を訊くと少し怯えたように声を震わせた。
「お前、まさか、執行人の……」
「カレン殿、逃げて下さいッ!」
 ダミアンは青年の言葉を遮るように叫んだ。首元を抑え、まだ苦しさが残っているようだった。
「ここに来てはなりませんッ」
「ダミアンさん……でも……」
「――――ッ!」
 ダミアンはそして、カレンの元へと駆けだした。
 青年が、慌ててライフルの銃口をダミアンへと向けた。
 カレンの世界はその瞬間、スロー再生のようにゆっくりとなった。
 カレンはダミアンの元へ駆け寄ろうとした。
 だが――全てが、遅すぎた。
「――――ぐっ!」
 銃弾はどんな人間も差別することなく、その命を奪い取る。
 処刑人であれ、王族であれ、それは変わらない。
 ダミアンの身は平等に、打ち抜かれた。
「……ダミアン、さん……」
 ダミアンはそして、その場に倒れ込んだ。
「いやああああああッ!」
 カレンの悲鳴は周囲の喧騒を一瞬破り、轟いた。
 カレンは涙を地面に撒き散らしながらダミアンの元へ走り、その身体を支えた。
 全身から力が抜けてしまっていたダミアンの身体はやけに重かった。
「ダミアンさん、しっかり、しっかりしてくださいッ! 死んじゃ、死んじゃだめッ」
「カレン殿……」
 ダミアンは力ない手でカレンの頬を触った。
 本当にか弱くて、今にも消えてしまいそうなその手をカレンは強く握りしめた。
「私は……死ぬ前に……あなたに会うことができて……よかった……」
 ダミアンの言葉は本当に小さなもので、カレンは訊きとることで精いっぱいだった。ダミアンの優しい頬笑みが今だけはとても悲しくカレンには映った。
 カレンの瞳から零れ落ちた雫がダミアンの頬へ落ちて弾けた。
「そんな、そんなこと言わないで下さいッ。私が今助けますから」
「カレン殿……」
 ダミアンはか細い声でカレンへと囁いた。
「いいのですよ……私の命は、あなたの父上に引きとめさせていただいたもの……私は本当ならばあの村で死んでいたはずなのです」
「ダミアンさん……」
「あなたの父上のおかげで、私は……聖書を翻訳するという望みも……果たすことができました……もう、思い残すことはありません」
「そんな、そんなこと言わないでッ。生きていれば……生きていさえすれば、きっと」
「カレン殿……」
 ダミアンはカレンを制するように言葉を告げる。
「その歳で父上の後を継いだということは……色々と辛いこともあったでしょう……今までよく頑張ってきましたね」とダミアンは言った。「これが、私から……あなたに教えられる最後の言葉となるでしょう……あの者たちを憎んではなりません」
「いや、いやあ……」
 カレンはその溢れ出る涙を隠すかのようにダミアンの顔へ胸を押し当てた。
 ダミアンは力ない手でカレンの頬を撫でる。
「私の教えを……忘れてはなりませんぞ……あなたの父上も、きっと、それを……」
 ダミアンの手はその言葉を最後に地面へと落ちた。
 ――ダミアンの命は今この瞬間、消えてなくなった。
「いやああああああッ!」
 カレンの叫びは銃声の中に混ざった。
 だが、ダミアンを撃った男たちはその悲鳴をはっきりと聞いていた。
 青年はカレンが執行人だということを知ってか、その恐怖を隠すように強がり、言った。
「へ、へっ、ガキ、今日のところは見逃してやる。さっさとその爺さんを連れて消えるんだな」
 青年は震える声色でそう言い残すとカレンの元から踵を返した。
 カレンの泣き声はいつの間にか、止まっていた。
 カレンの心の中にとある感情の火種がポツンと生まれ落ちた。
 それは醜く。
 それは切なく。
 それは悲しいものだった。

 ――殺してやる。

 ダミアンさんを撃ったあの男を。その傍にいた男も。八つ裂きにしてやる。
 カレンは知らず知らずの内に地面に落していた大剣を右手で強く掴んでいた。そして、涙を浮かべていた瞳で男たちの背中を睨みつけた。
 その瞳は真黒な闇に覆われていた。
 カレンは大剣を握りしめ、ゆっくりとその場に立ちあがった。
 両手で、大剣を強く握る。カレンが男たちを斬り伏せようとしたその瞬間、カレンの視界は黒く塗りつぶされた。
「よせっ、カレンッ!」
 視界の黒の正体はどこからともなく現れたクロだった。羽を羽ばたかせ、カレンのことを邪魔するクロをカレンは容赦なく振り払った。
「邪魔」
 クロはカレンに吹き飛ばされ、一瞬カレンから離れたが、それでもまたクロはカレンの前に立ちふさがった。
「お前、今自分が何をしようとしてるか、分かってんのかッ!?」
「あの人たちを、殺すの」
 カレンは感情の籠っていない声で、クロに答えた。
「あの爺さんは、最後にお前になんて言ってたんだよ!?」
「――――ッ!」
 カレンはクロの言葉に自分の唇を噛みしめた。
「お前のやろうとしていることは正しいことなのか!? お前にとっての正義ってのはそんなに醜いものなのかよ!?」
「あ…………」
 カレンはクロの言葉を聞くと、大剣を両手から手放した。そして、そのまま地面へと崩れ落ちた。
「……じゃあ……じゃあ、一体どうすればいいの……? 私は……」
 カレンは言葉を紡いでいる最中、何か柔らかいものが自分の背中に触れていることを感じた。
 カレンは背後へゆっくりとと振りむいた。
「あ……ノワール……」
 ノワールがカレンを心配するように背中をさすり、鳴いていた。カレンは微笑み、ノワールの頭を撫でた。
 そうするとカレンは不思議と自分の気持ちが暖かくなるのを感じた。
「ごめんね、ノワール。私、何をしようとしてたんだろうね……」
 カレンの瞳にまた新しく光が灯った。
 だがしかし、それは先ほどのように黒くはなく、美しいものだった。
「私、行くよ」
 カレンはそして勢いよく立ちあがった。
「お前、まだそんなこと」
「ううん、違うよ、クロ」
 カレンはクロの勘違いを正すようにして語りかけた。
「私は、私が正しいと思ったことをする。この暴動を、止める」
「なっ、お前はまた訳の分からねえことを……お前一人じゃどうにもならねえってさっき言ったばかりじゃねえかっ」
「それでも、それでも私は助けたいのっ、ここにいる罪のない人たちのことを」
「だからそれは――」
 クロは途中で言葉を紡ぐのを止めた。
 カレンにもその理由は分かった。
 銃声の中に規則正しい足音が混ざり、兵隊たちが広場へとなだれ込んできたからだ。
「な、なんだ……?」
 クロは唖然とその光景を眺めていた。
 カレンも同じく、周囲をただ見渡していた。
 兵隊を出せるのならば、何故議会は早急に派遣することをしなかったのか。
 カレンはそんなことを考えながら兵隊たちを見ていた。
 そして、その違和感にようやく気が付いた。
「黒い……鎧……」
 カレンは静かに、そう呟いた。
 兵隊たちは皆、見たこともない黒い鎧を身に纏っていた。少なくともそれは国の正規軍のものではない。彼らは一体、何者なのだろうか……。
 カレンがそんなことを考えていた時、土煙りの中から一人の青年が姿を見せた。
 髪は美しい金。精悍な体つきだが青の瞳が優しげな、どこか少年の色を残す青年だった。
 青年はカレンの姿を見つけると、慌てるように声をかけてきた。
「お嬢さん、ここは危険です。今すぐこの街から離れて下さい」
 青年は兵隊たちと同じく、真黒な鎧を身に纏っていた。カレンは街を離れるとか、そんなことよりも青年の、あの兵隊たちの正体の方が気になっていた。
「あ、あの、あなたたちは一体……」
「俺はラウルと言います。広場にいる兵士たちは私の上官の私有兵隊の者たちです。この場は俺たちが治めます。あなたは早く……」
 ラウルはカレンに話しかけている途中、カレンの傍に落ちていた大剣に視線を移していた。
「大剣? あなたは……」
 ラウルは大剣を見た後、もう一度カレンをじっくりと眺めた。そして、その正体に気が付いた。
「もしかして、あなたが処刑人の」
「はい、ブレア=カレンです」
 カレンはきっと、この人も自分の正体を知ったら驚くに違いない、そう思った。
 だが、ラウルはカレンの言葉を訊いても驚く素振りを見せることはなかった。
「そうだったんですか。話には聞いていましたがまさか本当に女子だったとは……いえ、ですが、ここは危険です。早く避難を」
 そして、ラウルはカレンから踵を返し、土煙りの中に姿を隠そうとした。
「わ、私も、あなたたちに協力を」
 カレンはラウルを呼び止めようとして、そう言った。ラウルは一度だけカレンへと振り向いて言った。
「これが、俺の仕事なのですよ。あなたには、あなたの成すべきことがあるはずです。それを忘れてはいけない」とラウルは言った。「もしも、あなたとまた出会えたのなら俺は色々と話がしたい。お願いできますか?」
「え? あ、はい……」
 カレンはラウルに話をはぐらかされたことにも気づかぬまま、言われるままに答えた。
 ラウルはカレンの言葉を聞くと嬉しそうな子供のような笑みを浮かべた。
「それは、嬉しい限りです。では、ご武運をっ」
 ラウルはそして土煙りの中へと消えていった。カレンはしばらくラウルの消えた方向を眺めていた。
 カレンはラウルの言葉を思い出し、ダミアンの亡骸をその目に焼き付けた。
 これが、私の仕事なのだと自分に言い聞かせた。
 サントハイムの街の動乱はゆっくりとではあるがその勢いを弱めていった。


 それは――ダミアンが命を落とした虐殺事件の少し前。

「それは、本気で言っておられるのですか!?」
 ラウルはいつもジョゼフとチェスを行う一室でジョゼフに対し詰め寄った。
 カーテンが締め切られ、光が殆ど入ってこない部屋の中で、しかしジョゼフは窓の外を見つめているようだった。
 ジョゼフはラウルには振り向かず、その背中で語る。
「ああ、本当だ。もうすでに噂を流すように指示は出した。後は、我々が起きた暴動を平定するだけだ」
 ラウルはジョゼフの言葉に思わず、傍にあった机を叩いた。
「そのようなこと、神が許すとお思いなのですかっ!?」
「ラウル……話を聞け」
 ジョゼフは静かに、ラウルに答えを導く。
「王は幽閉された。国民の中には疑心暗鬼の根が生え始めた。その中で、私は信頼を勝ち取らねばならん」
「そのために、罪なき人を殺すというのですかっ!?」
「…………そうだ」
「何故なのですかっ!」
 ラウルは背中を向けたままのジョゼフに対して叫ぶ。
「ラウル、私はお前に言ったはずだ。誰かが罪を犯さなければ歴史は変わることはない、と」
「そんなことは分かっていますっ、ですが」
「私はこの計画で命を落とした全ての国民の恨みと悲しみを背負う覚悟がある!」
「――――」
 ラウルはジョゼフの迫力に言葉が出なくなった。ジョゼフの言葉は強かった。だが、その裏にはどこか悲しみのようなものが含まれているようにラウルには思われた。
「私はこの手を血で真っ赤に染めようとも、やり遂げたい理想があるのだ。誰にも、邪魔はさせない。……ラウル、お前は私にいつまでもついて来ると言ったな」
「…………」
「今ならばまだ間に合う。お前までが私のように罪を背負うことはない。引き返すなら、今だ」
「…………くっ」
 ラウルは思わず、両の掌を強く握りしめた。
 自分のやろうとしていることは何だ?
 罪なき人を殺してまで実現したい理想があるのか?
 ラウルは心の中で激しく迷う。
 だが、自分のことを信じてくれたジョゼフは全ての悲しみ罪を背負うとまで言った。
 自分は、どうだ?
 何かの結果を得たいと思ったのではないのか?
 犠牲となった罪なき国民は新たな変革の糧となるのか?
 もう、ラウルには分からなかった。自分が今何を選択すべきなのか。
 しかし、ラウルはジョゼフの覚悟を認めたかった。受け入れたかった。自分の剣はジョゼフのためにあるとかつて決めたのだから。
「――いえ、俺はあなたについていきます、ジョゼフ殿」
 ジョゼフはラウルの言葉を聞くと、ようやくその身体を振り向かせた。
「お前なら、私について来てくれると信じていた。すまないな……」
 薄暗い室内でラウルは一つの決断を下したのだ。










 四章

 自宅の近くにある教会の墓地にカレンの姿があった。
 死刑執行人の仕事は何も、死刑執行だけというわけではない。身元不明の亡骸を管理し、埋葬することも執行人の役割だった。身元がはっきりとしており、家族が教会に頼み出れば埋葬するのは教会の仕事、ということになる。
 だが、八つ裂きの刑などでバラバラになってしまった死体は教会の人間にとって触れたくもないようなおぞましいものであり、執行人が埋葬するというのは必然と言えば必然だった。
 死体の管理、と言ったが、死刑執行人は死体の保管も行っており、ブレア家では死体を解剖して研究を行っていた。また、死刑執行人は鞭打ちなどの刑罰も行っており、人間の身体をどこまで傷つけても死なないか、後遺症が残らないか詳細に知っていた。身体に穴を開けると言った刑罰ではどこに穴を開ければ後遺症が少ないか徹底的に研究しており、ブレア家に刑罰を受けた人間はその後の存命率が高かった。カレンは刑罰で自分が傷つけた相手の治療を熱心に行っていた。
 しかし、カレンはブレア家の当主でありながら人体の研究を嫌い、死体の管理すら満足に行っていなかった。人体の情報などは先代が残した書物に目を通せば大体のことは把握できるし、そもそもカレンは人の亡骸を見るのがあまり好きではなかったのだ。
 鬱蒼と生い茂る芝生の上に無数の白い十字架が突き刺さっていた。規則正しく並んだそれは教会の組織としての隠匿性を示しているようである。一つ一つが天に召された誰かのために立てられたものであり、軽視することはできない。
 雨が降りしきる中、カレン傘をさすこともなく安らかに眠るダミアンの身体に土を被せた。何度も、何度も、何度も。
 そして、いつの間にかダミアンの身体は完全に土の中へ隠れた。ダミアンが眠る土の上には白い十字架など立てられてはいない。
 誰も、誰も、ダミアンの死を悲しむことはないのだと思うとカレンの心は酷く痛んだ。
「…………」
 カレンはダミアンを埋葬した土の上に一本のオリーブの花を静かに乗せた。
 花はカレンが教会へ来る途中に拾っていたものだった。白くて、綺麗で、でもどこか儚くて。
 しかし花は、激しい雨に打たれながらも土の上で真っすぐに立とうと必死だった。カレンは花の健気さに静かに微笑んだ。
「ダミアンさん……安らかに眠ってください」
 いつも隣にいるクロは今この場にはいなかった。カレンはダミアンを見送るのは自分の役目であると心に決めていたのだ。
 もしかしたら、ダミアンは自分のせいで死んでしまったのかもしれない。カレンはそう思った。だが、考えてはいけなかった。
 後悔とか、憎しみとか、思ってはいけない感情だけが溢れてくる。
「ごめんなさい……ダミアンさん……あなたの命を救うことができなくて……」
 カレンは一人、ダミアンに語りかけるように呟いた。後悔している暇はなかった。
 自分にはまだ成すべきことがあるのだとカレンには分かっていた。
「私は、私は、答えを見つけられるのでしょうか……」
 あの虐殺事件からもうすぐ数週間が経つ、クレイブの判決はまもなく下されようとしていた。
 カレンの次なる仕事は――信頼する王の処刑かもしれなかった。



 雨に打たれてずぶ濡れの姿のまま家に帰ってきたカレンを出迎えたのは、ノワールとその背中に居座るクロだった。
 どちらも、カレンを心配する言葉をかけてくることはなく、ただただ気まずそうな雰囲気だけが流れた。
 カレンはそんな雰囲気の中にありながらもクロがノワールと打ち解けた様子を見て、微笑んでいた。
「クロ、ノワールと仲良くなったんだね」
「……ああ、まあな」
 カレンの身体から水滴が零れる。
 ノワールが申し訳なさそうに咥えていた黄色い封筒をカレンへと差し出した。その内容はカレンにとって分かり切ったものだった。
 カレンは優しい手つきでノワールから黄色い封筒を受け取った。そして、その文書に目を通した。

「被告人 アラン=グライブ。
 罪状――売国罪。
 被告は王という立場にあり、一時は国民議会の成立を容認したが、自分の利権が段々と失われていく息苦しさに耐えかね、革命の思想を根絶やしにしようと近隣の王家に救援を求めた。これはこの国イルレオーネに住む全ての民を裏切る卑劣な行為であり、国民の総意として刑の執行を望むものである。
 刑罰――斬首の刑」

 文書の内容は大体カレンの予想通りのものだった。
 信じたくは、なかった。
 どこかで間違っていてほしかった。
 何で、何でクライブが死ななくてはならないのか。
 何かの、間違いではないのか。
「くっ――」
 カレンは握りしめた拳で家の壁を叩きつけた。
「カレン……」
 クロとノワールがカレンを心配そうな目で見つめた。
 確かに、カレンと父上、その先祖たちは多くの人間を処刑してきた。
 しかしそれは裁判によって死刑を受けた罪人であり、自分たちは職務を果たしてきただけだ。カレンは何度も自分にそう言い聞かせてきた。
 自分たち一族が手にかけた人間の中にはもしかすれば無罪の人もいただろう。不当な判決、間違った裁判の犠牲となった人もいるだろう。
 だが、自分に一体何ができるのだろうか?
 エリックの時も結局はそうだ。裁判は裁判所、裁判官の責任で行われるべきことであり、正しい判決がなされたかどうかは、自分たち執行人の関知するところではない。自分たちの職務は下された判決を執行すること。
 でも。
 でも、何故なのだ。
 エリックの時はそう思い込むことで何とか自分の気持ちを整理することができた。
 だが、何故、あの国民のことを一番に考える名君が国民の下した判決で――死ななければならないのか。
「どうしてよ……」
 カレンはこの気持ちをどこにぶつければいいのか分からなかった。
 自分がどうすべきなのか、カレンの気持ちはまたしても迷い、ブレる。

 ――国王陛下は、悪人?
 ――絶対に、違う。

 確かに革命前の社会にはあまりにも多くの弊害がありすぎた。全く何の労働もせずに贅沢三昧の生活を送る大貴族がいること思えば、額に汗して作った麦をすべて年貢に取られ、その一粒すら口に入れることができない農民がいた。しかも、食うや食わずの貧乏人からは厳しく税を取り立てておいて、金の有り余っている大貴族は税金を一切払わなくていいというのはどう考えてもおかしかった。
 そして、国民の二パーセントにも満たない特権階級が国を壟断し、残りの九十パーセントの一般市民が蚊帳の外に置かれるというのもおかしかった。
 軍隊でも役所でも、大貴族なら無能でもどんどん出世し、一般市民はどんなに能力があり立派な仕事をしても上に行けないというのはおかしかった。
 革命はたしかに起こらなければならなかった。
 だが、しかし、それで国王を処刑するというのは明らかに間違っていた。
 革命は行き過ぎてしまった。
「お前、どうするつもりだ?」
 クロがカレンに問うた。
「……分かんない」
 カレンは俯きながら、そう答えた。
「分かんないってお前、まさか」
「――だってっ、だってどうすればいいのっ!? 国王陛下を殺すのっ!? それが、この家の名誉を守ることなのっ!? もう、分かんないよ……」
 カレンは叫んだ。
 そして、そのまま玄関の傍に崩れ落ちた。
 涙を流し、カレンは両の手で顔を押さえつけた。
「カレン……」
 クロは呟いた。
 その時、外の方から雨を踏みしめるような足音が聞こえてきた。
「よう、やっぱ俺の予想通り美人になったな、カレン」
「バッカス、さん……」
 雨の中、カレンの家を訪ねてきたのはかつてとは違い、上品な服を身に纏ったバッカスだった。

「相変わらず、泣き虫なところは変わっていないようだな」
「余計なお世話です」
 バッカスは家の中の壁に背中を預けながらカレンに対し、言った。
 久しぶりの再会にカレンは喜びを露わにしたいところではあったが、今はそんなことをしている状況ではなかった。
「実はな、今日はお前のことを口説きにきたんだ。こんな美人を放っておく術はないだろ?」
「冗談はそれくらいにして下さい」
 カレンの言葉にバッカスは苦い顔を浮かべていた。
「釣れないね」
「それで、どんな要件が?」
 バッカスはカレンの言葉を聞くと表情を真剣なものにした。
「まあ、冗談が通じるような状況でもないか……俺が来た理由はたったの一つだ。王の奪還作戦に協力してほしい」
「奪還、作戦……?」
 カレンの心の中に希望の火が灯った。
 王は、陛下は、助かるかもしれない……。
「俺の見立てでは、きっと王の罪は冤罪だ」
「な…………」
 冤罪――。
 カレンはバッカスの言葉に身を震わせた。
 やはり、やはり、王が罪人なわけがない。
 カレンの予想は的中していた。
「何か根拠があるんですかっ?」
 カレンは身を乗り出すようにしてバッカスを問いただした。バッカスはカレンのことを落ちつかせるように両の肩に手を置いた。
「まあ落ちつけ。王のことを告発したのは共和制を推し進める派閥のジョゼフって議員だ」
「ジョゼフ……その人が陛下を?」
「俺の読みが正しければの話だがな。俺にはどうもやつの提出した証拠が胡散くさくてならない。きっと捏造でもしたんだろうな」
「捏造……そんな、何で裁判所はそのことに気が付かなかったんですか!?」
 カレンはバッカスの胸倉を思わず掴んだ。
「だから、落ちつけって。俺は別に裁判官でも何でもないんだっての」
 カレンはハッとしたようにバッカスから手を離した。そして、顔を少しだけ赤らめた。
「す、すいません……」
「ったく……まあ、どういう経緯で裁判が進んだのかは分からねえが、きっと偽装は完璧だったんだろうな。死刑なんて判決が下ったくらいだ。お前には協力してほしいと頼んだが、お前がやることはたった一つだ――――俺を、王の代わりに斬れ」
「な――――ッ!」
 カレンはバッカスの言葉に思わず耳を疑った。
 王の代わりに、バッカスさんを斬る……?
 出来ない。
 そんなことはカレンには出来なかった。
 王の代わりにバッカスを斬ったとしてもそれでは何も変わらない。
 変わりはしなかった。
「王が生きてさえすれば何とでもなる。俺はお前が王を護送している最中に王と入れ替わる。ちょっと無理があるかもしれないが、変装すれば大丈夫だろ」
「……出来ません」
「なっ」
 バッカスはカレンの意味不明な解答に思わず叫んだ。
「何を言ってやがるっ!。これが一番簡単で確実な方法なんだっ。何で分からないんだっ」
「王の代わりにあなたのことを殺したってそれじゃあ何も変わらないじゃないですかっ」
「これしかないんだよっ。今、ジョゼフって議員の人気は鰻登りだ。あの虐殺事件を収めたのもジョゼフってやつの私有兵隊だったんだからな」
「え……?」
 カレンはバッカスの言葉に思わず目を見開き驚いた。
 黒い鎧の兵たちの姿がカレンの頭の中で蘇っていた。
 そして、あのラウルという青年のことも。
 彼が、彼らが、陛下のことを……?
「民衆の支持が絶大なやつを議会で論破しようってのは困難だ。もうこれしかないんだよっ」
「それでも……出来ません。私は、もう、罪のない人が死ぬところを見たくありません……」
「お前、まさか、あの虐殺事件に……」
「私の先生が、死にました」
「ッ…………」
 バッカスはカレンの言葉を聞くと、頭を抱えた。そして、気まずそうにカレンから視線を逸らす。
「……あーっ、もうっ、分かったよ。もうお前には頼まねえっ!」
 バッカスはそして、苛立つようにカレンから踵を返した。
「お前に頼まなくったてこっちには他にも計画があるんだっ。結局王を殺すことになったって知らねえぞ。一番辛いのはお前なんだからなっ」
「…………」
 バッカスはカレンはバッカスに何も言い返すことができずに俯いた。
 自分は一体どうすべきなのか、答えはまだ出ていなかった。
「邪魔したなっ」
 バッカスは勢いよくカレンの家の扉を叩きつけるように閉めた。カレンはその音に一瞬怯えるように肩を震わせた。
「……で、お前は結局どうするつもりだ? カレン」
 終始バッカスとカレンの会話を聞いていたクロがカレンに尋ねた。カレンはクロに振り向かずに黙り込んだ。
「あのバッカスってやつが言っていた作戦はそんなに悪くないと俺は思ったけどな」
「…………」
「名誉のために王を殺すのか?」
「…………」
「それとも自分の中の正義を信じて王を逃がすのか?」
「…………」
「あいつの作戦を否定したお前に残された選択は二つに一つだ。お前は、どうするんだ?」
「…………」
 クロは何も答えないカレンに呆れてしまったようだった。クロは溜息を、ノワールは心配そうな鳴き声を上げる。
「はあ……だんまりか。だがな、カレン。俺とこの犬っころはお前がどっちを選んだとしてもお前について行くだけだ」
「――――ッ」
 カレンは、クロの言葉に思わず振り向いた。
 ノワールの背中に居座るクロは、多分笑っているのだろう。カレンはそう思った。
「お前の肩は案外居心地がいいんだよな。失うには惜しい。まあ、食料源がなくなるってのも嫌だからな……そうだろ、犬っころ」
 クロはまるで照れ隠しをするかのようにノワールへと話を振った。ノワールは元気よくカレンに鳴いてみせた。
 カレンは溢れだす涙を止めることができなかった。
「――――ありがとうっ」
 カレンは真黒な二匹のことを、両手で力一杯抱きしめた。
 どこにも行ってしまわないように。
 温もりを噛みしめるように。
 ギュッと、父に抱きしめられた時のようにカレンはクロとノワールを離さなかった。
「お、おいっ、止めろってっ。苦しいってのっ」
 クロはカレンから離れようと羽をバタつかせ暴れたが、カレンには関係がなかった。
 きっと自分はこの二匹がいればなんとかなる。カレンはそう思いたかった。
 国王を逃がすといっても、どこへ逃げればいいというのだろうか。自分が逃げ出したりしたら、それは父上と先代たちを裏切る行為に他ならない。カレンは明確な答えが出せないままであった。
 何の解決策も浮かんでこないまま時間だけが悪戯に過ぎさり、処刑執行の朝がこくこくと近づいていた。



 カレンは、とうとう一睡もできないまま処刑の日の出を迎えた。
 街の方角から激しい太鼓の音が鳴り響く。街はもう大騒ぎに違いない。間違った革命の最終段階が今日この日に実行されようとしているのだから。
「どうするかは、決まったか?」
 大剣を背中に抱え、処刑への準備を進めるカレンにクロが尋ねた。クロの声色は心なしかいつもと違い頼りがいのないものだった。
「……正直、分からない」
「……そうか」
 クロはそれ以上カレンに追求してはこなかった。大剣を背中に抱えながらカレンは、この大剣を使わないようにと心の底から願った。
「もう、行かなきゃ」
 そう言って立ちあがるカレンの肩にクロが乗った。脇にはノワールがついた。
「安心しろ、カレン」
 クロは言った。
「どんなことになったとしても、俺とこいつが絶対にお前を生かしてここに帰させる。お前はもう、昔みたいに一人じゃないんだ」
 カレンはクロの言葉に嬉しさのあまり、涙を零してしまいそうになる。だが、それは出来ない。クロとノワールを不安にさせることは出来なかった。
「……ありがとう」
 カレンはこれで何度目となるか分からないありがとうを二匹に対し、囁いた。
 今日が最高の結果に終わるように願いながら。

 本来ならば死刑囚の護送とは死刑執行人が行うものである。国は処刑を執行人に一任しているわけで、無駄な人員をかけたくないという理由もあった。
 だが、今日大々的に行われる王の処刑は安全を期すということでカレンは護送に関わることが許されなかった。
 結局のところ、バッカスの発案した計画は実行したところで失敗に終わっていたのだ。
 カレンは処刑台に赴く馬車の中で密かに期待をしていた。
 もしかすればバッカスたちが何か行動を起こしてくれているかもしれないと。
 街の中心。処刑台のある広場が見えてきた瞬間にカレンは大剣へ右手をかけた。バッカスたちが行動を起こしているのなら自分はそれに加わろうと、カレンはそう決めていた。
 だが、それは一睡の夢に終わった。
 処刑台の近くには国民近衛兵や正規軍の兵隊たちが何重もの隊列で処刑台の周りを固め、十万人にものぼろうかと思われる観衆は奥の方へ追いやられていた。
 兵士たちの銃には銃剣が装備され、処刑台は林立する銃剣と槍にぐるりと囲まれていた。
 とても、バッカスたちの力だけで打開できる状況ではなかった。
 カレンは大剣にかけようとしていた右手を静かに下ろし、馬車の中で俯いた。いつまでも他力本願な自分に腹が立った。何もすることが出来ない自分に怒りを覚えた。
(どうしたら、いいの……)
 カレンはもう何も分からなかった。
 あの包囲網では王を連れて逃げ出すなどきっとできはしない。
 どうすれば、どうすれば。
 カレンが思いつめている時、隣に座っていたノワールがカレンの左腕に鼻を押し付けていた。
 心配するな。
 大丈夫だ。
 ノワールのそんな心の声がカレンには聞こえてくるようだった。
「うん、そうだね……」
 カレンを乗せた馬車は兵隊たちの包囲網を潜り抜けていつの間にか処刑台の麓まで辿り着いていた。
「到着いたしました」
 カレンは馬車の騎手に言葉をかけることも忘れて石畳へと降り立った。
 カレンはその瞬間、広場の異様な雰囲気を肌で感じ取った。
 波打つ観衆と、太鼓の音。
 銃声のように轟く野次がカレンには耳ざわりだった。
 カレンは全身に鳥肌が立つことを感じた。
 ――ここにいる全員が陛下の死を望んでいる?
 そう思うとカレンは恐ろしくて、悲しくて涙が零れてしまいそうだった。誰か一人でもクライブの死を悼む者はいないのかと。いや、そもそもそんな人間はこの広場に現れるはずはなかったのだ。
 カレンだって自分が一般の市民で何も力がなかったのならそうしたはずだった。
 クライブを乗せた馬車は、宮殿に通じる道から広場へ入ってくることになっていた。カレンがちらちらとそちらのほうに目をやっていたときに雲の裂け目から冬の弱い日差しが差し込んだ。
 カレンは少し耳をすましてみた。国王救出のためにバッカスが別の計画を実行に移し、銃を撃ち合う戦闘音が聞こえてきはしないかと思ったのである。安全に確実にクライブを救い出すならば護送中しかない。カレンもそれくらいは分かっていた。
 ひょっとすればもう計画は実行され、すでにクライブは安全な場所へと向かっているのではあるまいか、とそんな甘い考えをカレンは抱いていた。忠誠なものたちによって逃げ延びゆくクライブの姿がカレンの眼には浮かびさえした。
 規則正しい蹄の音で、カレンの夢想は突然打ち切られた。
 抜き身のサーベルを手にしてまたがった国民近衛兵の姿が広場に現れ、その後に騎兵の一隊が続いた。それから二頭立ての深緑色の馬車が広場に入ってきた。馬車を先導する騎兵はおよそ百人だった。
 馬車が処刑台の傍らに止まった。
 カレンは何もできずにただその光景を見ているばかりだった。
 この中に国王陛下がいる。
 そう考えるとカレンの全身が震えた。
 馬車のドアが開き、まず二人の憲兵が、次に神父が、そして最後に――アラン=クライブが降りてきた。
「陛下……」
 カレンは一人そう呟いた。
 結局、奇跡は起きなかった。起こるはずもなかった。
 カレンとクライブが出会うのはこれで三度目であった。片や王家に生まれ、片や処刑人の家に生まれた身分的に見ればまるで対照的な二人はしてはいけない邂逅をここに果たしたのだ。
 死刑執行人は国王の権限により、処刑を断行する。その王が、処刑人に殺されてしまうなど、誰が予想したであろうか。少なくともカレンはそうだった。
 クライブの態度、表情には取り乱したところも、気落ちしたところも全くなかった。落ちつきを払い、むしろ堂々としているようだった。カレンには、殉教者の刻印を帯びた国王は、前より尊厳に溢れているようにさえ見えた。
「…………カレンさん」
 国王はカレンの姿を見つけると、最初に出会った時のような笑顔を浮かべてカレンに話しかけてきた。
 こんな光景は夢であると思いたかった。
 夢であってほしかった。
 だが、現実実に溢れるクライブの言葉を聞いてカレンは激しい絶望感に襲われた。
 夢であるはずがなかった。
 ――私は、今から陛下を、殺すんだ。
 カレンは身を震わせながら改めて実感していた。
「こんな形で再会してしまうとは、神の悪戯か何かでしょうかね」
 王の笑顔がカレンにとっては辛すぎた。
「……陛下」
「国のために忠誠を誓い、今まで苦労をされてきたあなたに斬られるのら、私は潔く、死ぬことができるでしょう」
「――――ッ!」
 カレンは唇をかみしめることしかできはしなかった。今なら、陛下を連れてどこかに。そんなことは無理だ。この包囲網を突破することは不可能に違いない。
 父のことを、裏切るのだろうか。
 カレンの心の中に父の面影が浮かんで、消えた。
 優しかった父。
 自らの職務に誇りを持っていた父。
 自分はその父に憧れていたはずだった。
 ――なのに、今私は。
 何を考えている、のだろうか。
 国王はそして処刑台の階段へと歩み寄った。絶望しか、なかった。
 カレンは処刑台の周囲を今一度見直した。処刑台は幾重もの兵士たちによってびっしりと囲まれていた。兵士たちによって後ろに追いやられた十万の観衆はこの場の雰囲気に圧倒され、陰気に静まりかえっていた。
 太鼓の流し打ちの音だけが広場に響いていた。
 バッカスたちは一体どこにいるというのだろうか。
 もう、捕まってしまったのだろうか。
 冷静に考えればその可能性の方が大きいことは明白だった。
 クライブは処刑台の階段を上り切ると所定の位置に膝をつき、カレンに首を差し出すように俯いた。国の王に相応しい、潔い死に際だとカレンはまるで他人事のように別の思考で思った。
 茫然とするしか、カレンにはなかった。
 その時だった。
 俯いていた王が突然、聴衆へ向かって叫んだ。
「イルレオーネ人よ、あなた方の国王は、今まさにあなた方のために死のうとしている。私の血が、あなた方の幸福を確固としたものにしますように。私は、罪無くして死ぬ」
 よく通る声だった。
 だが、その声は勢いを増した太鼓の音に掻き消されてしまったため、クライブはそれ以上言い続けることができなかった。
 カレンはクライブの言葉に茫然自失としていた。
 罪無くして、死ぬ。
 その言葉がやけにカレンの耳に残った。しかしながら、カレンはもうやるしかなかった。
 エリックの時のように大剣を握ろうとする右手が微かに震えた。鞘から抜き去り、両手で抱えても、覚束ない。カレンの息遣いは異様に荒くなった。エリックを見る視界は揺れ動く。
 ――私は、私は、もう……。
 カレンは生唾を飲み込み、震える手で大剣を振り上げた。観衆はその様子に息をのむ。
「うわああああああッ!」
 カレンの声が広場の中に響く。

 一際大きく、まるで鉄か何かが砕けるような音が轟いた。

「…………」
 観衆は一瞬その光景に言葉も出ない様子だった。そして、ざわめく。
 大剣は確かに振り下ろされた。
 だが、落ちるべき王の首は未だ籠の中には落ちていなかった。
「――申し訳ありません……父上……!」
 カレンは天にいる父に向かって謝罪した。
 カレンが巨大な大剣で斬り伏せたのは王の首ではなく、王を縛る鎖だった。
「…………カレンさん」
 クライブは今自身の身に起きた事態を把握したようにハッとしてカレンの元へ振り向いた。
「陛下、私は答えを見つけることができました――あなたを救うことが私の中の正義です」
 カレンはすっきりとした表情で王にそう言った。もう、カレンの心の中に迷いはなかった。
「貴様ッ、一体どういうつもりだッ!」
 背後に立っていた憲兵の一人がカレンを取り押さえようと襲いかかってきた。
 ――間に合わない。
 カレンの大剣は処刑台の上に突き刺さっていたため、振りかぶるための時間が必要だった。結局、自分には何も出来ないのか。
 憲兵が銃を構える様を見て、カレンは思わず目を瞑った。
「黙ってなッ!」
 誰かが殴られるような音がした。カレンはその音を聞くと恐る恐る瞼を開いた。
 よく分からないことになっていた。
 もう一方の憲兵がカレンを取り押さえようとした憲兵を殴り倒していた。その憲兵は暑苦しそうに顔を覆い隠していた兜を剥ぎ取った。
 カレンは憲兵の顔に見覚えがあった。
「……マチュランさん……?」
 憲兵の正体はかつてカレンの命を救ってくれた男、マチュランだった。
「久しぶりだな、カレン。お前なら、王を殺したりしないって信じてたぜ」
「な、何で……」
 カレンが待ち望んでいた奇跡は、今まさに起きようとしていた。


 観衆はしばらくの間、状況が呑み込めていないようだった。
 王は何故死んでいない?
 さっきの音はなんだ?
 処刑人は一体何をしてるんだ。
 そんなざわざわとした囁き声が広場中を支配していた。
 そんな中で、処刑台を取り囲んでいた近衛兵たちだけは状況をすぐさま把握していた。
「くっ、やはりこんなことになったか……早く死刑囚と処刑人を取り押さえろ!」
 近衛兵の隊長が近衛兵全体に支持を出した。数では圧倒的だ。たった二人の人間を捕えることなど造作もない。この近衛兵はそう思っていたに違いない。
 だが、近衛兵たちの初動は鈍く見えた。
 半数以上の近衛兵たちは処刑台の元へ向かおうとしている。だが、四分の一ほどの近衛兵が全くといっていいほど動く素振りを見せなかったのだ。
 近くにいた動かない近衛兵に隊長は激しい口調で問いただす。
「おいッ、早く指示通り動けッ!」
「…………」
「どうしたッ!? これは命令だぞッ」
「あんたの部下になった覚えはないんでね」
「何ッ!? 貴様、どういう」
 声をかけられた近衛兵は突然、隊長を殴り伏せた。隊長は馬から転げ落ち、地面へと背中から落ちた。
 隊長を殴り伏せた近衛兵は兜を勢いよく取り払った。彼はバッカスを助けに来ていた友人グループの一人だった。
「道を開くぞッ!! 王の命を何としても守るんだッ!!」
 彼の言葉で動いていなかった近衛兵たちが一斉に動き始めた。
 それは奇妙な光景だった。
 近衛兵と近衛兵どうしが戦っていた。
 処刑台から街の外へと続く一本道に道ができかかっていた。
 観衆はその光景にますます混乱に陥っていた。
 何がどうなっているのか、彼らには全く理解できなかった。


 カレンは処刑上の周囲の光景にただただ唖然とした。
 近衛兵と近衛兵どうしが戦っている。
 そして、今はもう観衆の中からも反逆する近衛兵に加勢するものまで出てきていた。
 カレンはマチュランの笑顔を今一度見ると状況を全て把握した。
 きっとあの近衛兵たちはバッカスたちのグループだ。今の今まで近衛兵に変装して機会を伺っていたのだ。
 だが、何故だ。
 国王を救うチャンスなら今までいくらでもあったはずなのに何で、今まで黙り込んだままだったのだ?
「カレン」
 考え込んでいたカレンにマチュランは言った。
「俺たちは、お前の剣の腕と、正義を貫こうとするその心に全てを託そうと思う」
「!!」
 カレンはマチュランの言葉に拳をギュッと握りしめていた。
「行け。王の命を救ってくれ」
 カレンは涙を瞳の中に一杯含みながら勢いよく立ちあがった。
 大剣を握る両手には力が籠る。
 やるべきことはたったの一つだった。
「――ありがとうっ」
 カレンはそして、マチュランの笑顔を脳裏に焼き付けた。
 忘れないように、決して消えてしまわぬように。
 そしてカレンは膝をついていた王の手を取った。
 後は、陛下の命を救うだけだった。
「陛下、こちらです」
 クライブは一瞬カレンの言葉に戸惑ったが、カレンの表情を見ると覚悟を決めたようだった。
「……分かりました」
 カレンはその言葉を聞くと、クライブを連れて駆けだした。包囲網の中にまるで雲の隙間から刺す光のような道が僅かながらにできていた。
 カレンの瞳は、定まっていた。
「生きていたら、また街の外で落ち合おうッ!」
 カレンはマチュランの言葉を背中で受けながら階段を駆け降りる。
 異様に身体が軽かった。
 父に対する申し訳なさも今は綺麗さっぱり消えていた。
 正義の意味が、カレンの心の中で定まった瞬間だった。
 階段を下りるとノワールがカレンの到着を待ちわびていたかのように元気な鳴き声を上げた。
「ノワール、行くよッ」
 カレンはマチュランたちが作りだした一筋の光の道を駆ける。クライブもそれに続いた。
 立ち止るわけにはいかなかった。


 カレンはマチュランたちが作りだした道を通り、広場を抜けた。幸いにもカレンの視界の中には兵士たちの姿はなかった。
「カレンッ」
 上空から真黒なカラスが急降下してくる。
 説明するまでもなくそれはクロだった。
「クロっ」
「無事だったようだな」
「うん、それでこの辺りに敵はっ?」
「この道は街の外まで一続きだ。路地を通って遠回りすることもできるが……ってことだ」
「オッケー」
 多分、どこかに兵が伏せているのだろう。だが、関係がなかった。カレンは自分の剣に絶対の自信を持っていたし、今は誰にも負ける気がしなかったのだ。
 カレンはふと、自分が手を取るクライブのことが気になって振り向いた。
「陛下、大丈夫ですか?」
 クライブは息を切らしながらも何とかカレンについてこようと必死だった。
「……私は、大丈夫ですよ」
「しばし御辛抱下さい」
 カレンは心配そうな声でクライブに声をかけた。
「カレン、敵だッ」
 カレンはクロの言葉に視線を前方へと戻した。路地から十人ほどの兵士たちがカレンを取り押さえようと立ちふさがった。
「止まれッ!!」
 兵士たちの一人がカレンたちに対して叫んだが、カレンはその足を止めることはなかった。
 クライブの手を離し、カレンはクライブに言う。
「陛下、お下がりください」
 カレンの声は自信に満ち溢れていた。
「おい、カレンッ」
「心配しないで、クロ」
 カレンは兵士たちの元へ一瞬の内に距離を詰めようとする。兵士たちは銃を構えたが、その中の一人がそれを制した。
「銃は使うなッ、王を殺してしまっては本末転倒だぞッ」
 兵士たちは仕方なく、銃を投げ捨てサーベルを鞘から抜いた。
 カレンはその光景を見て、不敵に笑った。
「剣で、私に勝てると思った!?」
 兵士たちがもたついている間にカレンは兵士たちの懐に入り込んだ。
「くっ――」
「はあッ!!」
 一閃。
 大剣が一人の兵士をなぎ倒す。
 他の兵士がそれを見て慌ててサーベルを振りかぶったが、遅すぎた。
「遅いッ」
 一人、二人とカレンはたった一人で兵士たちをなぎ倒していく。
 父上との稽古に比べれば、ただの兵士の十人やそこらを倒すことはカレンにとって造作もないことだった。
 殺しはしない。
 皮肉にも、カレンの学んできた処刑人の知識がここで生きた。致命傷になる部分を的確に外し、戦闘不能状態にする。
 難しい芸当だ。
 だが、今の迷いのない力強い剣筋のカレンには出来ないことではなかった。
 気が付くと、兵士はカレンの前に皆寝転がっていた。
「……お前、やっぱすげえな」
 クロがその光景を見て、感嘆の声を漏らした。
「言ったでしょ? さあ、先を急ごう」
 カレンはそして、立ち尽くしていたクライブの手を取った。
「陛下、まだ走ることは出来ますか?」
「……大丈夫ですよ。あなたの思いを無駄にするわけにはいきませんからね」
「いいご返事です」
 カレンはまた走り出す。
 街の出口までは後少しだった。
 街から脱出することさえ出来れば何とかなる。
 カレンの心の中には希望が満ち触れていた。
 その刹那――
「陛下ッ!」
 カレンは前方のどこから殺気を感じ、王と共に地面へと伏せた。
 カレンの行く手を遮るように銃弾が石畳に突き刺さった。カレンは急いで状況を把握しようと前方を見渡した。
 黒の鎧を身に纏った兵士たちが先ほどの兵士たちと同じようにカレンの行く手を遮っていた。
 その兵士たちの中心にこの場には不釣り合いな男が一人立っていた。
「まさかこんなことになるとは、一応用意をしておいて正解だったな」
 小奇麗な服を身に纏い、灰色の髪をした、初老に差し掛かった男性。髪と揃いの色素の薄い眼球。男は含み笑いを浮かべながらカレンの前に立ちふさがる。カレンはその正体に心当たりがあった。
「貴様は、まさか……」
「ん? なんだ。その様子だと私の名前を御存じなのかな?」
 カレンはゆっくりと立ちあがる。
 男はカレンに礼儀正しくお辞儀をしながら言う。
「初めましてお嬢さん。お初にお目にかかります、ブリュノ=ジョゼフです」
 ――ジョゼフ。
 バッカスからカレンはその名前を聞き及んでいた。
 この男が陛下を……。
 カレンは自分の心の中が激しい怒りに支配されていくのを感じた。
 だが、それを止めることは出来なかった。正義の、ために。
「貴様、貴様が陛下を……!」
「ふっ、まあ、お前には話してしまってもいいだろうな。確かに国王を告発したのは私だ――捏造した証拠でな」
「――――ッ! 陛下は、国民のために国民議会を設立したんだぞッ、何故陛下を……」
「貴様は愚か者だな」
「何ッ!?」
 ジョゼフはカレンの言葉に呆れるように言った。
「王権とは、王とは、その存在自体が悪なのだ。人間とは、皆平等だ。国民議会が設立されたとしても王の権威は衰えない。それでは真の平等はあり得ない。何故それが分からない」
「黙れッ! そこをどけッ!」
 カレンはジョゼフの言葉を無視し、彼に斬りかかった。だが、カレンの心の中には戸惑いが浮かんだ。
 ジョゼフはカレンが迫って来ているにも関わらず、余裕の笑みを浮かべていたからだ。
「無駄だ、お前の剣は私には届かない」
 カレンはジョゼフの言葉の意味がすぐに分かった。
 彼女の大剣はジョゼフの身体に届くことなく、途中で止められた。
 黒の鎧を身に纏った兵士の一人がカレンの剣を受け止めていた。その兵士は顔面を守る兜を外していた。
 カレンはその横顔に見覚えがあった。
「なっ……」
 太陽の光とを反射する髪は美しい金。精悍な体つきだが青の瞳が優しげな、どこか少年の色を残す青年。
 カレンが虐殺事件の際に出会った、ラウルだった。
 ラウルの持つ剣はカレンの大剣と引けを取らない大きさのもので、カレンは瞬時にラウルの腕を肌で感じ取った。
「こんなところで出会ってしまうとは……残念です。ブレア=カレン殿」
 ラウルは瞳の中に強い光を含みながらカレンにそう言った。
「どいてっ、私の邪魔をしないでっ」
「あなたに恨みはない。だが、ジョゼフ殿の前に立ちふさがるというのなら、俺は――あなたを斬るだけだ」
 ラウルはカレンの大剣を弾き飛ばした。
「っ!」
 カレンは石畳に右手を擦りつけ、何とか体勢を整える。
 ――この人、強い。
 カレンは元々力はないほうだった。まだ少女なのだから当たり前といえば当たり前とも言える。だが、普通の男になら負けない。カレンにはそんな自信があったのだ。
 ラウルは造作もなく、カレンを吹き飛ばした。カレンにはそれが驚きだった。
 カレンが考え込んでいる内に、ラウルが彼女の元へ迫る。飛び上がり、空中から大剣をカレンへと叩きつける。
「はあッ!!」
「くっ」
 鋼と鋼がぶつかり合う。
 耳障りな音が鳴り響く。
 重いラウルの一撃にカレンの脚は折れてしまいそうだった。
「何でっ、何であなたはあんな男の下につくのっ!?」
「…………」
 剣を唾ぜり合わせながらカレンはラウルに問うた。
「それが正しいことなのっ!? それがあなたの正義なのっ!?」
「くっ――黙れっ! それ以上、ジョゼフ殿を侮辱するなっ!!」
 ラウルはそして、もう一度カレンのことを弾き飛ばした。純粋な力の差ではラウルのほうがカレンに勝っていた。
「きゃあ――!」
 カレンは地面に身体を叩きつけられた。
「カレンッ」
 カレンの元にクロが駆けよってきた。
 何とか震える手で身体を起こす。
 勝ち目はないに等しかった。だが、カレンは諦めるわけにはいかなかった。
「だめだ、あのやろうはお前より上だ。とても敵いっこない」
「……分かってる」
「路地から回りこめばまだ可能性はあるッ」
「だめ」
「何でだよッ!?」
「マチュランさんたちの数は圧倒的に少なかった。もうすぐ広場は制圧される。今ここで、この道を切り抜けなきゃ時間がない」
「そ、そうだけどよ……」
 カレンはクロの声を振り払って大剣を構えなおした。
 この青年に、ラウルに勝つしかカレンに道は残されていなかった。
「大丈夫だよ……私の剣の腕はクロが一番知ってるでしょ?」
 震える声色でカレンはクロに言った。
「カレン…………ん?」
 クロは何かに気が付いたようにジョゼフへと視線を移した。
「あれは……カレンッ」
「な、何? 何度言われたってこれしか」
「そうじゃねえっ」
 クロはカレンの耳元まで近寄り、囁いた。
「バッカスってやろうは確か、証拠が捏造だって言ってたよな」
「う、うん」
「あいつの懐に入ってる封筒。あれがもしかしたらその証拠なのかもしれねえ」
「えっ?」
 カレンはジョゼフの胸元を見て目を細めた。
 確かにジョゼフはクロの言う封筒を大事そうに抱えていた。
「確かに……でも、あれが証拠だって決まったわけじゃ」
「あの金髪を倒すよりは遥かに建設的だ。俺が何とかやつの注意を引きつける。その隙にお前は金髪の攻撃をかわしてあれを奪い取れ」
「で、でも、クロ……」
「どうした、何よそ見をしているっ!」
 ラウルがカレンに向かって叫んだ。
 考え込んでいる時間はもうなかった。
「大丈夫だ。俺はずる賢いカラスだからな――」
「クロッ!」
 クロはそしてラウルの元へと飛び立った。
「なっ、何だこのカラスはっ」
 クロはラウルの頭の上で羽をバタつかせ視界を妨げた。ラウルは剣を振り回したがそんな攻撃がクロに当たるわけがなかった。
 カレンはクロが作ってくれた刹那の時間を無駄にしまいと疾走を始める。
 見惚れるほどの速さだった。
「このっ、行かせるかッ!」
 ラウルがクロによって塞がれた視界の中から何とかカレンに剣戟を放つ。
 だが、カレンは真っ向からそれを受け止めるわけではなかったのだ。
 力に逆らわず、ラウルの一撃は受け流された。
 逆にカレンはその勢いを利用してさらに加速した。兵士たちの前に立っていたジョゼフの懐に入り込む。
「何――」
 一閃、カレンはジョゼフへと剣を放った。服の胸の部分が斬り裂かれ、お目当ての封筒が零れ落ちた。
 カレンは封筒をジョゼフたちに気づかれることなく、懐に隠すことに成功した。
「ぐっ!」
 ジョゼフが僅かな声を上げる。
「くっ、何をやっている、早く取り押さえろっ!」
 カレンは何人もの兵士たちによって押しつぶされた。伝家の宝刀の大剣は石畳を滑り、カレンの手の届かないところまで行ってしまう。
 バッカスたちの発案した国王奪還計画は今この瞬間、失敗したのだ。








 五章

 監獄の中でカレンは一人、石畳に腰を下ろしていた。
 カレンは両手を後ろで鎖に縛られながらも監獄の居心地の悪さに眉をひそめた。
 日光が殆ど入ってこないため、気色悪く湿っている石畳しかり、不安感を募らせるだけの狭い空間しかり。カレンの楽しみはこの数日間、少しでも人道的にと配給される硬いパン一個くらいのものだった。
 とは言っても、そんなものカレンの喉は通すわけはなかった。
 王のことが心配で気が気でなかったのだ。
 王の奪還作戦が失敗した後、カレンは囚われの身となった。カレンが連れて来ていた王も当然のようにまた捕まった。
 カレンは自分の無力さに怒り、舌を噛みちぎろうかとさえ考えた。だが、そんなカレンの思いを留まらせていたのは最後の希望とも言えるジョゼフから奪い取った封筒だった。
 両手両足を縛りつけられているこの状況では中身を見ることさえ敵わないが、きっとこれが状況を一変させてくれるとカレンは信じていた。
 クライブはまだ絶対に殺されてはいない。カレンはそう確信していた。
 何故ならば、クライブの処刑は国民に向けて大々的に行わなくてはいけないからだ。
 共和制を本気で目標とするならば、王の死という光景を国民の眼に中に焼き付けさせる必要があった。
 これで、王が君臨する時代は終わったのだと。
 これからは俺たちが政治の主役なのだと、理解させなければならなかった。
 だが、今はきっとそれが出来ない。イルレオーネの中にカレンの家を置いて他に処刑人の家系はないし、王の処刑ともなれば普通の人間には絶対にできないはずだ。カレンはそう思っていた。
 まだ、可能性はある。
 まだ、私には何かができる。
 カレンはそう信じて疑わなかった。
 だが、囚われの身の自分に何が出来るのだろうか。
 背反した気持ちがカレンの中で彷徨っていた。
「辛気臭い場所だな、ここは」
 カレンは聞きなれた声に反応して振り向いた。
「クロっ、無事だったの?」
「ああ、まあな」
 僅かに開けられていた窓の手すりに真黒なカラスが一羽、とまっていた。いつもカレンを助け、傍にいてくれたクロだった。
「それよりも、大丈夫か、カレン」
「うん、私は大丈夫」
「そうか、あの封筒は?」
「それも無事、ここにあるよ」
 カレンはそして、自らの胸をクロに目で指し示した。クロはカレンの手首の状態を見て、まだ満足に読めてもいない状況なのだと理解したようだった。
「分かった。ちょっと待ってろよ」
 クロはそして、カレンの近くへと羽ばたいた。胸元に隠してあった封筒をくちばしで器用に取り出した。
「クロ……マチュランさんたちは、どうなったの?」
 クロはカレンの言葉を聞くと、気まずそうに封筒を石畳へと下ろし、口を開いた。
「皆、捕まったよ。裁判はまだだろうが、恐らく極刑は免れないだろうな……」
「そう……なんだ……」
 カレンは自分の行動に僅かながらに後悔の念を抱いた。
 結局、計画は失敗し、いずれはクライブも死刑が執行される。加えて、マチュランさんたちまで……。
 そう考えると後悔しか浮かんでこなかった。
 あそこで王を殺していれば、マチュランさんたちは犠牲にならずにすんだのかもしれない。胸が痛かった。
 カレンの様子を察したようにクロが明るい声で言う。
「大丈夫だっての、この封書がきっと決定的な証拠なんだ。見てろよ…………なっ、何だよ、これ……」
 クロは封筒の封をくちばしで切り、その中身を読んだ。そして、がっくりとうなだれていた。
 カレンはクロの後ろ側から文面の内容を読み取った。
 それは、全く関係の無い普通の手紙だった。
「やっぱり、違ったんだね……」
「くそッ!」
 クロは文章へ羽を叩きつけながら叫んだ。
「俺のミスだッ。あのジョゼフってやろうなら自分の懐が一番安全だって考えるって思ったのに……全部、全部あいつの思惑通りかよッ!」
「クロ…………」
 カレンは一人後悔し、叫ぶクロになんと言葉をかければいいか分からなかった。
「悪い、カレン……これじゃあ、裁判じゃ何の役にも立ちやしない。俺のせいだ……」
「そんなことないよ。きっと、私はあのまま戦っていても負けていたし……」
「気休めはやめろよッ」
 クロはカレンを言葉で制した。クロの悲しみがカレンは背中越しに伝わってくるようだった。
「俺が、俺とあの犬っころでお前だけはなんとか助け出す。だから、許してくれ、カレン」
「クロ……」
 カレンの頭の中にその瞬間、ある考えが浮かんだ。
 この状況を逆転できるような一手が。
「……分かった、分かったよ、クロっ」
「は? 何がだ?」
 突然明るくなったカレンの声色に思わずクロは振り向いた。
「ちょっと耳貸して」
 カレンはクロの元へと身を乗り出して耳打ちをした。クロは当初訝しげな視線でカレンの言葉を聞いていたが、段々と小さな瞳を見開いていった。
「どう?」
「……いや、それは……いけるかもしれねえ」
「でしょ?」
「確率は低いが……試してみる価値はある。あのジョゼフって野郎が計算高いやつなら、成功する可能性は大いにある」
 クロはそう言うと、考え込むように翼を口元へ寄せた。そして、突然笑い出した。
「こういうことを考えるのは本当ならずる賢いカラスの、俺の役目なんだけどな」
「いつまでも、クロに頼っていられないからね」
「ははっ、そうか……ん? 誰か来るぞ」
 クロは遠くから響く足音に気が付くと、封書をカレンの懐に戻し、窓へと羽ばたいた。
「カレン、また来るからなっ」
「うん」
 クロはそして監獄の外へと飛び立っていった。
 カレンはクロに再会できた喜びもそこそこに足音のする方向をキッと睨みつけた。
 こんな時間帯にくる人間なんてカレンは考え付かなかった。裁判の日にちは今日ではないし、食事の時間もまだまだ先だ。
 だとしたら、誰が……?
 足音は段々とカレンの元へ近づいてきて、音の主がカレンの前に姿を見せた。
「……ラウルさん……」
 そこに立っていたのは、カレンと一対一の決闘を行った相手、ラウルだった。
 美しい金髪も監獄の中ではその輝きを鈍らせていた。
「……どうも」
 ラウルはカレンに視線を合わすことなく、そう言った。一体、自分に何の用があるというのか、カレンには分からなかった。
「何の、御用ですか?」
「俺の立場で、こんなことをしていいのかどうか分からないのですが……あなたに会って話がしたかったというのは本当です」
 ラウルは言葉の選択に迷いながらもカレンにそう言った。
「何で、私に会いたいと思ったんですか?」
「あなたなら、俺の質問に何か答えを見つけてくれると思ったんです。執行人の、あなたなら」
「……どういうことですか?」
 ラウルは考え込むように黙り込むと、ようやくカレンのことを見て、語り始めた。
「俺には、自分のしていることが正しいのかどうか、分からないのです」
「――――」
 カレンはラウルの言葉に思わず目を見開いた。
 ――この人、私と同じだ。
 カレンはそう思った。
 正義の意味を見失い、
 自分のしていることに不安を感じ、
 何をすべきなのか覚悟が揺れて、ブレる。
 ラウルはかつてのカレンそのものであった。
「ジョゼフ殿の理想に俺は賛同しています。真の平等を勝ち取り、この国を根底から変える。ですが……ですが、その方法が間違っている。悪に対して悪を持って挑んでいったところで何も変わりはしない。分かっています。俺たちのしていることが悪だっていうことくらい」
「…………」
 カレンは何も言わず、ラウルの言葉に聞き入っていた。
「でも、俺は、一体どうすればいいのか……ジョゼフ殿を裏切ることはできません。悪の化身になったとしても、この国が変わるのなら、そう思ってきました。
 ……カレン殿、あなたは俺のことを罪人だと、思いますか? 数多の罪人を切り伏せ、正義と悪の狭間に立たされたあなたは、どう思うのですか?」
「……あなた、昔の私に似てる」
 ラウルはカレンの言葉に驚きを隠せないようだった。その笑顔に目を合わせられないようだった。
「私も、ついさっきまで正義って一体何だろうって考えてた。あなたの質問に私は答えることができない」
「なっ、それはどういうことですか?」
「だってそれは――あなた自身が見つけ出すものだから」
「俺、自身が……?」
 ラウルは、一人呟いた。
「私は、一族の誇りよりも、陛下の命を助けることが正義なんだって見つけることができた。あなたは、見つけられそう?」
「そ、れは……」
「急がなくったっていいよ。でも、いつかきっと選択すべき時は来る。その時に選んだものがきっと、あなたの答えなんだと私は思う」
「――――」
 ラウルはカレンの言葉を聞くと、すっきりとした、何か心が晴れた様な表情を浮かべた。
「……そうですか。ありがとうございました。俺なんかの質問に答えてくれたこと、感謝します」
「……いえいえ」
「また、また生きて出会えたのなら、あなたともう一度勝負がしてみたい。今度は邪魔が全く入らないところで」
「私もです」
 ラウルはそして、カレンから踵を返す。ラウルの背中はカレンとってどこか前よりも大きく、逞しく見えた。
「……あなたとは、もっと別の形で出会いたかった」
 ラウルはそう言い残し、カレンの元を離れていく。ラウルの足音が段々と離れていく。そして、監獄の中は完全に無音となった。
 ラウルのことを考えるとカレンの心は何故か暖かくなった。

「これで、お前と会うのは三度目だな、カレン」
 ラウルが監獄の外へ出て行って数時間が経った。カレンの元に現れた人物は、バッカスであった。
「バッカスさん……あなたは無事、だったんですか」
「ああ、俺だけは、な」
 バッカスはそして、カレンに向けていた視線を少し逸らした。
 俺だけは、ということはつまりクロの言った通りマチュランたちは捕まってしまったということだろう。
 考えると、カレンは胸がかき乱された。
 自分のせいで、そんなことを思ってしまわないように必死だった。
「マチュランさんたちは……無事、ではなかったんですか」
「ああ、俺も作戦に参加しようとしたんだがな。あいつらが無理やり俺を置き去りにしていったのさ。お陰で、俺はまだ議員の立場を維持できてお前の弁護も担当できるってわけさ」
「……ごめんなさい、私の、せいで……」
 バッカスはカレンの言葉を聞くと、気まずそうに一度舌打ちを打った。
「ったく、別にお前のせいじゃねえって、お前は王を逃がそうと必死に頑張ったじゃねえか」
「……そうですか」
「だが、すまねえな。お前の弁護をするわけなんだが、正直言って勝算はない。お前の行動はあからさま過ぎた。証言者なんて腐るほどいる。証拠も十分だ。弁護の使用がないんだよ……」
「それなら、大丈夫です」
 バッカスはカレンの言葉に驚いたようにカレンのことを見つめ直す。
「どういうことだ?」
「私の話を聞いてください」




 裁判の聴衆たちがざわめいていた。
 聴衆は傍聴席の中には入りきらず、外に溢れるほどだった。
 本来ならば、自分たちを処刑する立場にある処刑人が裁判にかけられている。しかも、反逆罪という重大さから処刑人が死刑を宣告されることは必死だった。注目しないわけがない。
 裁判所の中は不思議なほどに緊張感に包まれていた。裁判長を中心として、右には弁護人、つまり、バッカスが一人そこに立つ。
 左側には検察、カレンのことを捕え、この一件の根源でもあるジョセフが不安そうな顔を浮かべるラウルと共に立っていた。
 ジョゼフは不敵な笑みを浮かべていた。カレンはクロの言葉を思い出していた。
 自分にあの封書を奪い取らせ、捕まえる。希望を持たせておいてどん底に叩き落とす。きっと計算高く自分の考えに絶対の自信を持っている人間に違いない、カレンはそう思った。
 被告席でカレンは一人座っている。きっと私の考えた作戦は上手くいく。そう思うことで緊張とか不安と一人戦っていた。
「では、ジョゼフ議員、冒頭陳述を」
 裁判長がジョゼフに冒頭陳述を命じた。ジョゼフは余裕を持って、ゆっくりと立ちあがる。
「被告人の身上、経歴を説明します。被告人はこの国、イルレオーネで出生し、その後死刑執行人の父の後を継ぎ、これを歴任。現在は家族もなく一人暮らしで非行歴はありません。被告人の犯行について説明します。まあ……私が説明するまでもないでしょうがね」
 ジョゼフは首を横に振って呆れた様な素振りを見せた。
「構いません。お願いします」
「了解いたしました。被告は昨日、王を処刑するという任務を受け、処刑へと赴きました。ですが、処刑に当たる段階でこれを放棄し、さらに死刑囚である王と共に逃亡を図ろうとしました。これは国民総意として絶対に許せない反逆であり、我々は被告人に対し、死刑を求刑します。以上で、冒頭陳述を終わります」
 ジョゼフはそして、持っていた書類を机の上にパラッとばらまいた。もう、見る必要はないということなのだろうか。カレンは横目で見ながらそんなことを思った。
 沈黙が裁判所を支配する。
「分かりました。では、弁護人、冒頭陳述の用意はありますか?」
 裁判長がバッカスに尋ねるが、バッカスは俯いたまま、しばらく何も答えなかった。
「…………」
「そうですか。次に証人尋問に移りたいのですが……何を隠そう、私も被告人の犯行の現場は見ておりました。私としてはその必要性に疑問を感じざるを得ません」
「裁判長」
 ジョゼフが言う。
「被告人の犯行は明白なものであり、最早この裁判自体に必要性がないと私は考えます。如何ですか?」
「ふむ…………」
 裁判長はジョゼフの言葉にしばらく考え込むようにして唸った。確かにカレンの犯行は弁護のしようがない、あからさまなものだ。
 議論の必要性がない、というのも頷けた。
「そう、ですかな……私もその考えに同意します。……最後に被告、ブレア=カレン、何か言いたいことはありますか?」
「はい」
 カレンは静かに答えた。
「では、被告人、発言をどうぞ」
 カレンは徐に立ち上がり、発言席へと足を延ばす。
 静かにゆっくりと、だがそれは確かな足取りだった。
 カレンの発言を前に聴衆たちが息をのむ。
 カレンは桜色の唇を、開いた。
「私、ブレア=カレンは王の命を助け、それを守ろうとしたことに一切の後悔を感じておりません」
「…………」
 裁判長は静かにカレンの言葉を聞いていた。
 聴衆もそれに準ずる。
「この国の王、アラン=クライブ陛下は、国民のことをいつも一番に考え、国民議会の設立を容認してくれました。私は、王の処刑に疑問を感じざるを得ませんでした。王の処刑は何かしらの悪意を持ったものたちによって仕組まれた罠だ、とさえ思いました」
「裁判長」
 ジョゼフが机を勢いよく叩きつけた。
「被告人の発言は本件と全く関係のないことであり、早急なる判決を要請いたします」
「検察の発言を却下します」
「なっ……ちっ!」
 ジョゼフは舌打ちをし、また黙り込んだ。
 裁判長はカレンに続きを促す。
「被告人、続きをどうぞ」
「……私は、聴衆の皆さんにお聞きしたいのです。あなた方は、本当に陛下が売国奴だとお思いなのですか?」
 カレンは振り返り、柵の向こう側にいる聴衆に語りかける。
 聴衆がざわめく。
「陛下の人柄を本当に理解した上で、納得したのですか? 私は、処刑人です。私のことを快く思っていない方もこの中には大勢いるでしょう。ですが、ですが陛下は私に軽蔑の視線を向けることはありませんでした。そんな陛下が国を売るだなんて、本当にお思いなのですかっ!?」
 ざわざわ、ざわざわ。
 ざわめき立つ聴衆の中で一人の人間が立ちあがった。
 カレンはその顔に見覚えがあった。カレンがかつて副業の医療で命を救った女性だった。
「私も、おかしいと思います。国王陛下が私たちを裏切るなんて、やっぱり変です」
 その声に、また別の声が賛同した。
「そうだ、やっぱなんかおかしいぜ」
 ざわざわ……。
 聴衆の声は留まることをしらなかった。
「静粛に、静粛にっ」
 裁判長が言葉をかけるが、声は段々と大きくなっていく。心の中に広がる疑惑の種のようにそれは段々と拡散していく。
 ジョゼフがそれに痺れを切らしたように叫んだ。
「ええいっ、早く止めさせろッ!」
「――ジョゼフ殿、やけに慌てていらっしゃいますね」
 ざわめく法廷の中でそれまでずっと黙り込んでいたバッカスがようやく口を開いた。
「何……?」
「裁判長、私は本件とは全くの別件ですが、ここにある証拠品を提出したいと思います」
 バッカスはそして懐から一枚の書状を取り出した。
「ほう? それは何ですかな?」
「これは――検察席に立っているジョゼフ議員の証拠捏造に対する決定的な証拠です」
「――――ッ!」
 ジョゼフはバッカスの言葉に思わず身を震わせていた。
 あり得ない。
 ジョゼフはそう思っているに違いないとカレンは思った。
「これは証拠捏造のためにジョゼフ議員が配下の者と連絡を取り合った際、生まれたものです」
「バ、バカなッ! それは私の部屋の中に――」
 ジョゼフがそう口を漏らした時、法廷は当初の時のように静まり返っていた。
 ジョゼフは何か違和感を感じ、辺りを見渡した。そして、その違和感にようやく気が付いたようだった。
「今、何と仰いましたか?」
「き、貴様ッ! 私を嵌めたのだなッ!!」
 ジョゼフは机を叩きつけた。だが、それは遅すぎたのだ。
「この書状は何でもない、たたの手紙です。私は決定的な証拠と言いましたが、まさかそんなものが存在するとは、思いもよりませんでした」
「く、くそッ!! これは何かの間違いだッ、その男が私を」
「ジョゼフ殿」
 ジョゼフの横に立っていたラウルがジョゼフを制するように、優しい声色で言った。
「もう……いいのではありませんか? 結局、悪人の末路とはこういうものなのです。俺は、ジョゼフ殿にこのまま間違った道を歩んでほしくないのです」
「ラウル……」
 ジョゼフはラウルの言葉を聞くと、力の抜けた人形のようにその場に項垂れた。もうジョゼフに反論する気力は残っていなかった。
 奇跡は、起こった。










 エピローグ

 その後は忙しかった。
 バッカスが誘導尋問によって得たジョゼフの発言により、カレンの裁判の前に王の裁判がやり直されることととなった。
 ジョゼフの提示した証拠は捏造であることが判明し、王は無罪放免となり、国民たちは王への信頼をさらに強めたのだった。
 カレンは王が無罪になったということで王の命を救いだそうとした英雄として祭り上げられた。皆、カレンが死刑執行人であるということも忘れ、カレンと共に宴を楽しんだ。
 そして――国民議会の中で死刑制度の廃止が正式に決定した。

 カレンはまた、教会の墓地へと足を延ばしていた。今度は、ダミアンの墓ではなく父の墓を見舞いに。
 鬱蒼と生い茂る芝生の上に無数の白い十字架が突き刺さっている。前に訪れた時とは打って変わって教会の墓地は晴れ渡った太陽の日光に照らされていた。十字架に光が当たって、それは輝く。カレンはその眩しさに思わず目を細めた。
「カレン、これからお前は、どうするんだ?」
 父の十字架の前に膝をつくカレンにクロが尋ねた。
「どうだろうね。軍の人からは剣の腕を買われてスカウトされてるけど、どうするかはまだ迷ってる」
 カレンは父の十字架の前にオリーブの花を置いた。ダミアンの時と同じく、そっと静かに。
「ねえ、クロ」
「ん、何だよ」
「オリーブの花言葉って何だか知ってる?」
「花言葉? 俺はそんなの興味ねえな」
「そっか」
 カレンは花にそっと手を触れながら言った。
「オリーブの花言葉はね、平和だよ」
「へえ、平和か。お前の親父さんは何て思うかね」
「どうだろうね……」
 カレンはそして、十字架の前で両手を重ね合わせた。眠る父へ心の中で語りかける。

 ――父上、どうかお許しください。
   先代と父上が継いできた処刑人の職務を私の代で放棄することを。
   ですが、私は後悔しておりません。
   私は、正しい力の意味を知ることができました。陛下の、お陰で。

 カレンは心の中でそう言い終わると勢いよく立ちあがった。カレンの心の中は晴れ渡っていた。
「さあ、行こうっ! まだ仕事が残ってるんだからさ」
「――ここにおられましたか」
 カレンは優しげな声色にその身を振り向かせた。
「ラウル、さん……?」
 立っていたのは、ラウルだった。
 その表情は晴れやかで、美しい金髪は光り輝いていた。
「あなたは大丈夫だったんですか?」
「……ジョゼフ殿のご配慮で、私と私有兵の者たちは難を逃れました」
 ラウルの表情は少し、悲しげだった。カレンは何も言わず、ラウルの言葉に聞き入る。
「俺は――しばらくの間、あなたの助手になりたいと思います」
「えっ? 助手、ですか? でも、もう処刑人としての仕事は極僅かで……」
「正義の意味を、改めてお教え下さい」
 ラウルはそして、カレンに右手を差し出した。
 墓地には風が吹いて、光が舞う。
 肩を見ればクロがどこか不満げな顔をしている。カレンはそう感じ取った。
 カレンは少しだけ震える手で、ラウルの手を取った。
 ラウルの柔らかい掌は、春の日差しよりも暖かった。
U4
2011年03月15日(火) 23時41分24秒 公開
■この作品の著作権はU4さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
こんにちは、U4です。
今回の作品は電撃用に書きあげたものなのですが。
正直に言ってあまり自分はこの作品に自信がありません。
ですが、皆さんに色々と酷評を言ってもらってそこから直していけたらな、と思い今回出させていただきました。

気にしてもらい点は
・キャラクターがはたして立っているのか。
・そもそもこれは面白いのか。
ですね、よろしくお願いします。

この作品の感想をお寄せください。
No.1  星野田  評価:20点  ■2011-05-15 05:30  ID:b58CEwXZkaY
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 はじめまして、こんにちは。読ませてもらいましたので感想を。
 死刑執行人と、絶対王政から市民政治へのシフトっていうのは、面白いテーマですね。
 読んでいて思ったは、全体的に展開が速い気がするということでした。
 冒頭ではなんだかいきなり悪だとか正義だとかの話が出てくるのが、ちょっと個人的に受け付けなかった。この作品内での世界観や倫理観が分からないうちから、悪だとか正義だとか言われてもピンと来ないというか。作品の出だしとしてはもっと、客観的に書かれている方がいいんじゃないかなあと個人的に思いました。また、これは悪だ正義だ、という断定はやりすぎると読者に対しても押し付けがましく感じさせてしまう気がします。「こいう事例があるけど、こういう裁きは正しいのだろうか?」という問いかけくらいに押しとどめておくくらいがいいかもしれないと思ったり。
 上手く言葉にできませんが、世界観や倫理観がよく分からないのに、登場人物達が「世の中ではこう言われているけど、俺はこう思う」「普通こうだけど、私は違うと感じる」という展開がたくさんあって、なんだか馴染めないというか。前にも言いましたが、まずはどんな世界なのかやどんな倫理観があるのかを客観的に示し、それから登場人物達の(倫理観への)反乱を描いたほうが彼らの行動が映えるように思います。
 一章でも、アニエス達同級生に死刑執行人だとばれる流れが唐突かなあと。物語的には、もっと「ばれたかも?」というドキドキがあったほうが、盛り上がると思います。せっかく三人称の小説なんだから、カレンを中心に添えたシーン以外のシーンで(たとえばアニエスの母親がその街からやってきた知り合いにカレンの身のうちを聞いたと暗に示すシーンとか)カレンの出身がバレたような無いような展開を描くとか。
 たぶんですが、セリフででしかその人物が何を考え、何を思う人なのか描写されていないのが原因なのかなあと思うのです。他にも例えば、動作であったり、影響を与えてくれた人であったり、何かに感動を覚える出来事であったり、どういう人と拘っているのか、どんな物語を経験してきたのか、何に嫌悪をかんじるのかなどなど、その人の性格や考えを描く方法はある気がします。とくにこの程度に長い物語であり、この数の登場人物が出てくるのであれば、物語やカレンに影響を与える主要な人物のバックボーンをもっと描いて欲しかったなあと思ったり。たとえば親殺しの罪をもっているバッカスがどうやって議員にまでなったのかとか。
 もっと膨らませて味付けをすることで、世界や登場人物に色がつきそうなのに、勿体無いなあと重う作品でした。たとえばこの小説の二章だけを、今のこの作品と同じ分量で書いてみるとか、それくらい書いてもいいと思います。世界観の掘り下げという意味でも、(現行の)王政のいいところ悪いところ、(論者たちの語る)市民政治のいいとこ悪いところを上手く書き分けられたらおもしろいんじゃないかとか。

 と、ちょっと辛口かも知れませんが思ったことを書いてみました。おめ汚しいたしました。頑張ってくださいませ。
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