子犬を捜すのだよ、はふり君(冒頭差替4回目)
 その声は、ひしめく雑沓(ノイズ)の中、無垢な有様で、無造作に捨てられていた。

 ねぇ、
 月狂いの幻影(ミラージユ・オブ・ムーン・パラノイア)を知らない?

 この街に空というものがあるとして――、
 夜空に瞬く星は、透明な煤色に埋め込まれて、どこか安物のガラス玉くさくて、それでいて、無限に永遠だった。月は、狂おしいほどの白々しさで、見るともなく街を見下ろしている。
 僕はさ迷っている。
 空の在処が曖昧な街に。
 溝鼠色の靄に霞む電飾とネオンに染まりつつ、まとわりつく人いきれを掻き分け、騒然とする雑沓(ノイズ)の波にさらされながら、当て処も知らず歩いている。
 その声は、とても印象的に良く響き、懐かしくもあり、まるで聞き覚えのない、歌うようでありながら、その実、まるで抑揚のない冷淡な声だった。
   *
 何かが漏れ始めている。
 ぴちょん――
 水面に雫の垂れる。
 音――なのか、
 心像(イメージ)――なのか、
 それは、予兆もなく心の内に浮かんで意識を占め、数瞬滴って、不意に消える。いつでも、どんなときでも。
 僕は、その度に、言いようのない焦燥感に駆られる。止めなければ。けれども、何が、どこで、どこから漏れているのかが分からず、困惑する。無力感に打ちひしがれる。
   *
 その幻覚から解放されたとき、僕の顔を覗き込む少女の吐息と鼓動を聞く。
 不確かな空は、昏く蒼く、いくらか白味がかっていて、星はまばらで、瞬きを忘れていた。
 月ばかりが不条理に白かった。
「君は――」
 ねぇ――、
 その声は遠慮がちに発せられ、確固とした意志で僕に向けられていた。
 あなた、月狂いの幻影(ミラージユ・オブ・ムーン・パラノイア)を知らない?
 僕を見つめる翡翠色の瞳。物怖じなく真っ直ぐな視線を向ける勝気な瞳の奥に、どこか悲壮さを想わせる色が潜んでいる。
 雑沓(ノイズ)の波にさらわれてここがどこだか分からないの
 肌色の浅黒い、大きな瞳の印象的な顔立ち。波打つ金髪(ブロンド)。華奢な身体つき。ひらひらフリルの黒いワンピースドレスには、白のレースがふんだんに使われ、可愛らしいなかに、どこか不敬の匂いが秘められている。人形のようなという表現がこれほどに似付かわしい美少女も、そうはいまい。生命を吹き込まれた生命なき物のような。
 ともあれ、月狂いの幻影(ミラージユ・オブ・ムーン・パラノイア)という言葉がどのようなものを指すのか、知っていることは何もなかった。
「君は――」
 わたし――、
 再び、言葉を遮られる。
 月狂いの幻影(ミラージユ・オブ・ムーン・パラノイア)を捜さないといけないの
 瞬きすらせず、じっと見つめる少女の瞳。何かに追い立てられるように思い詰めていて、いくぶん潤んでいるようでもあった。
 ねぇ、お願い――
 少女の懇願に、僕は無関心を装う。
 僕が月狂いの幻影(ミラージユ・オブ・ムーン・パラノイア)なるものを知っていなければならない理由もないし、知らないことを少女に話してやらなければならない理由もない。
「君は、僕を僕と承知でものを問うのかい」
 僕はそっと、彼女の可愛らしく尖った顎の先に触れる。少女の唇は生まれたままの薄いピンク色で、瑞々しく潤んでいる。
 少女はびくりと肩を震わせて、身を強ばらせる。瞳に警戒の色が加わる。
「あなたのことは、知ってるわ。この『世界』に、あなたのことを知らない者はないもの」
「なら……」
「でも――、それでもわたしは聞かなければならないの、あなたに。多分、あなたしか、知り得ないことだから」
「ほぉう」
 僕がこの『世界』のすべてを知っているなどということはない。僕がアレに与えられた権限は、ごく限られたものだ。それでも、確かに他の有象無象よりは、かなりの自由意志と裁量権を与えられている。とはいえ、知らないものは、どういっても知らないのだが。
 それにしても、僕のことを知っていて、僕にものを問うとは――、
「君は、物怖じを知らない子供のようだ」
「だってわたし、この『世界』に生まれたばかりなんですもの」
 少女は勝気な瞳に、少しだけ怯えを滲ませて、変わらず僕を見ている。
「そう、この『世界』は生まれたばかりなのだろうな。君という存在を含めて」
 『世界』は所詮、幻想(イメージ)。アレが思い描けば、そこに創出される。たったそれだけの安易なもの。さりとて、そこに人格を持って縛り付けられた者にとっては、絶対的な、世界。
 この『世界』は生まれたばかり。
 少女のために。
 僕のために。
 にもかかわらず、僕にものを問わねばならないという盲目的な使命感。それはどこからもたらされたものか。誰に植え付けられたものか。少女自身も、自覚はしていまい。
 それならば――、
「僕というのが何とするものなのか教えておかねば、なぁ、今後のこともある」
 少女が、「えッ――」と問い返す暇も与えず、そのくびれた腰に手を回して抱き寄せ、少々強引にも抱え上げる。少女の貌を目の前に見て、彼女がためらう間も、驚く間も、怖れる間もなく、その淡桃色の唇を奪う。ぽってりとした唇を吸い、その内側を舌で舐め、歯茎の歯の生え際を刺激する。
 抵抗も忘れて感応する少女の身体。のけ反り震える背中をまさぐり、ワンピースのファスナーを引き下げる。空いてる手を差し入れ、膨らみ始めたばかりの温かく柔らかい胸の、しっとりと汗に濡れる肌を確かめる。指先で、繊細な突起を羽毛でなぞるように軽やかに撫で、摘み、転がす。
 頸筋に舌を這わす。
 あぁ――
 熱い吐息。
 歯の間から舌を差し入れ、少女の舌と絡ませつつ、それを引き出し、吸う。
 こりッ―― 舌先を小さく咬み切る。流れ出る血液の、鋭い味。味わいつつ、胸の突起を力を込めて摘み、ひねり上げる。
 ひぃぃい
 短い悲鳴を上げ、少女は背筋をのけぞらせ、僕の手の中で、がくりと脱力する。
 その瞬間に流れ込んでくる記憶の断片(イメージ)。少女が生み出される前の、少女を生み出すための情報であり記憶。切れ切れの映像は物語を紡がないが、知っていることと推測し得ることとで行間を埋めれば、少なからず見えてくることもある。
 少しばかり刺激が強すぎたのか、口元から鮮血を滴らせ自失する褐色の肌の美少女。その唇を、彼女自身の紅い血でなぞる。上気する頬。とろりと焦点の合わない瞳。半開きの真っ赤な唇。ぞくりとするほどに、官能的な表情。背徳と退廃、世を背にする美しさの極まりがそこにあった。
 記憶を探る。
 男の馥。女の貌。取り交わされる約定。何かを犠牲にして行われる遊技(ゲーム)。生まれるもの、失われるもの。失わせる者。
 そして……
 ――
 何かを感じて後退る。
 それはナニかとしか言いようのない気感。悪意や執念、殺気でもない。あえて言うならば、圧倒的な無関心。そこにあることを認めず、なくならしめることに一切の呵責なく、なくなりたりとて眉筋ひとつ動かさぬ。感情としての、無。
 抱きかかえる少女の顔に、朱の線が縦に走る。それが切断の痕だと知るのに、しばしの時間を要した。
 馬鹿、な。
 彼女の腰を支えた僕の右肘も断たれている。
 ずり落ちそうになる少女の半身を、切断されていない方の腕で抱える。ぎゅっと、力を込めて抱きかかえる。額に口づけ、朱線を舌でなぞる。すでに断たれたドレスをはぎ取り、胸、腹、股間、背中、尻、順番に舌を這わせる。
 朱線は消せる。が、それだけだ。人格を収めるその身体(イメージ)に、少女だった記憶と意志は戻らない。
 くそッ
 少女の身体を地面に横たえ、自分の右手を拾う。あてがうと元通りに附く。動作に支障はない。痛みはない。そもそもこの『世界』での僕に痛覚があるのかすら謎だ。時にそれを免除されることがある。そうでない場合もある。
 願わくば、彼女が痛みを感じなかったことを祈ろう。
 僕は彼女の望む情報を持ってはいなかったが、彼女のためにそれを捜すことは出来た。なぜなら、僕自身も、その言葉の指し示す物の何たるかを知らなければならなかったからだ。謎解きの伴連れに、褐色金髪の美少女など望むべくもないだろう。
 少女の抜け殻を見守っている。
 そのうちに、爪先から透け始め、全体がぼんやりと霞んで――、
 そして、消えた。
 静寂が途絶え、
 雑踏(ノイス)が戻ってくる。
 街に巣くう有象無象の蟲螻。個々の意志を持つようで群集心理に呑まれ躍らされている。生命なるものの維持には不可欠なのだろうが、僕には関わりない。興味がない。
 しゃがみ込む僕を迷惑そうに見る奴らに、冷淡な眼差しをくれてやる。
 ともかく、捜すべきを捜し出さねばならない。その理由が一つ増えた。
 さて、どこにいるものやら。当てが有ろうと無かろうと、この場所をさ迷っていれば見つけられるだろうと高を括っている。この蟲螻どものなかにあって、あれは得意な存在だからだ。
 蟲螻どものなかでも、特別に貧相で卑屈な奴らのひしめくなかに、一軒の屋台を見つける。ごみごみとしてごちゃごちゃとして、あらゆる匂いとあらゆる彩がひしめく界隈の、隅の隅、陰の陰にある。おでん屋でもそば屋でもラーメン屋でもなく、うどん屋だった。うどん屋の屋台は初めて見る。ぐつぐつと沸き立つゆで汁と、鰹だしの匂いが鼻に浸む。
 客はいない。
 のれんをくぐると、親父が一人で新聞を広げている。客が来ても見向きもしない。商売をする気がないのだろう。
「ダシの醤油は濃口より薄口の方が良い」
「お客さん、西から来なさったんでっか」
「いつから商売替えしたんだ」
 板っ切れの長椅子に腰掛ける。
「あんさんをお待ちしとったんですわ」
 親父は新聞をたたみ、よっこらせとたるんだ腹を揺らせながら大仰に立ち上がると、薄汚れた作務衣姿も気にすることなく、キザったらしい仕草で、ひとつ、指を鳴らす。
 ぐらぐらいう沸騰する湯の音が消え、
 鰹だしの匂いも遠のき、
 周囲の雑踏も、溝臭さも、消え、
 物質だと思っていた物が光りに転化し、光の粒子は流れ旋回し衝突し弾け砕け、またしても物質へと変位する。
 そこは、薄暗い木造アパートメントの一室で、僕が探していた場所だった。
   *
「ようこそ、我が家へ」
 下世話臭いイントネーションで慇懃に礼をする、太り散らかした薄汚い作務衣の男。ロイド眼鏡のサングラスがコミカルな意味ですら似合っていない。
「大きなお世話ですわ」
 勧められるままに、散らかり放題の部屋の隅にあるスツールに腰を置く。窓に引かれたカーテンの隙間から薄い光りが漏れ入り、水蚤のダンスのように埃の舞うのが映し出される。差し出されたコーヒーを見下ろす。まさか、鰹だしではあるまいな。
「あんたはん、珍しゅう、下手打ったんやて」
 ロイドデブが自分の分のコーヒーを、いかにもまずそうにすする。
「三年物ですわ。ええ塩梅に熟れとりまっせ」
 僕は、自分の分のそれを床に流す。
「何しまんねんな、掃除すんのわてでんねんで」
「僕は今、少しばかり機嫌が良くない。敵に回そうというなら、加減が効かんぞ」
「やめておくなはれ」
 ロイドデブは――マクガフィーは、おどけた容姿で諸手を挙げてみせる。目は笑っていない。真剣に悲痛で、潤んでいる。
「あんさんほどの内輪いびりのサディスト見たことも聞いたこともないわ」
「余計なことを言うからだ」
 胃の腑を吐き出しそうなほど大げさな溜息を吐いて、ロイドデブは、雑巾の束を床に放り投げ、床に向けてぶつぶつ言いながら足でごしごし擦り附ける。汚れがどんどん広がっていく。
「せやけど、あんさんを出し抜くようなヤツがおるなんてなぁ。そんなヤツにうろつかれたら、わてら枕高うして寝れまへんがな」
 役に立たない雑巾を蹴散らし、マクガフィーはどしんと、PCデスクの革張りチェアに腰を下ろす。僕のスツールと随分扱いが違うじゃないか。
「調べるつもりはあるか?」
「冗談やおへん、あんさん出し抜くようなヤツ追っかけたら、一瞬で、コレ、でっせ」
 と、自分の首を刎ねるジェスチャーをしてみせる。
「だろうな」
「そないあっさり肯定しんといてんか」
 と言いつつ、PCのキーボードを、キーの倍ほどもあろうかという指で叩き始める。
「一応、ヤバない程度の範囲で探っときまっさ」
「命知らずだな」
「止めておくなはれ」
 ロイドデブが、苦々しく笑む。こういう笑い方の出来るヤツは嫌いじゃない。
 それはそうと――、
 キータッチの手を休め、ロイドデブがこちらを振り向く。
「あんたはん、月狂いの幻影(ミラージユ・オブ・ムーン・パラノイア)を知りまへんか」
 その言葉は、あの少女の発した言葉。あの少女が求めたもの。捜すべきものと言った。今、それは、僕の義務になっている。
「おまえは情報屋だろう。僕がお前から情報を得に来た。その逆があるか」
「仰るとおりでおま」
 ロイドデブがこりこりと坊主頭を掻いた。
「それで、知りたいことってなんでっか」
「月狂いの幻影(ミラージユ・オブ・ムーン・パラノイア)とは、何だ」
「それ、わてが聞いたことでっせ」
「あぁ、お前がそれを知らないことは分かった」
「からこうたはるんでっか」
「気に喰わんか」
 ロイドデブは、肥え散らかした身体を縮め、はー、と辛気くさい態とらしい息を吐いた。
「ほんま、底意地の悪いお人でんなぁ。わてらは、あんたはんに逆らうことはできまへん。わてらは所詮、こん中だけのもんや。あんたがおらなんだら、外の世界と渡り合える人がおらなんだら、わてらは存在すら出来まへん」
 ロイドデブの手が人形を描く。
「おべっかはいらない。僕がいなくなっても、別の僕が生じるだけの話しだ。意味はない」
「そうやとしても、あんたはんには感謝しとるんですわ。どんなけ横柄で横暴でも」
「褒めるか皮肉を言うか、どっちからにしろ」
 ロイドデブはにやりと笑い、
「で、ほんまに聞きたいことはなんでっか」
「月狂いの幻影(ミラージユ・オブ・ムーン・パラノイア)」
 ロイドデブの眼をじっと見る。
 こちらの意図を汲んだのか、
「それ、もしかして、あんさん出し抜いたヤツとなんか関わるんでっか」
「おそらくな」
 ロイドデブが、ぶつぶつと考えながら爪を噛む。
「さいでっか……」
「お前こそ、それとどう関わる」
「わてもようわからんのですわ。何や急にそれについて調べなあかんような気がしてきて。そんな言葉、聞いたこともないゆうのに」
 あるいは、アレが関わるのか。それとも、別のナニか。あの少女といい、自らの知らぬところで、月狂いの幻影(ミラージユ・オブ・ムーン・パラノイア)に関わらされている。目的は何だ。僕のもとに連なってくるのは、偶然なのか。
 今考えても仕方あるまい。
「調べて貰いたいのはそれだけではない。もともとは、あることについて知りたいと検索していたらその言葉に突き当たった。それがヒントになるのかとその程度に思っていたのだがな」
「検索屋のとこ行かはったんでっか」
 巨大な図書館のような場所がある。むろん、イメージだ。そこを取り仕切る爺が、白髪で白髭で整頓好きで厭味で入れ歯が汚い、自称記憶仙人。普通は検索爺と呼ばれている。この『世界』のことで知らないことは何もないと豪語するが、ちょくちょく知らないことがある。要するに、アレの知らないことは知らないし、アレからすべてを委託されているというわけでもないらしい。少なくとも、月狂いの幻影(ミラージユ・オブ・ムーン・パラノイア)については知らなかった。
「正規ルートから攻めるのが常道だろう? おまえさんはもぐりだ。いわば邪道。推奨されない裏ルートだからな」
「邪道やろうと何やろうと、消されんいうことは、黙認されとるいうことですわ」
「それはそうだろな。でなければ、僕がここに来ることはない。アレへの義理立てもあるしな」
「ともかく、月狂いの幻影(ミラージユ・オブ・ムーン・パラノイア)についての調査はしてもらう。と同時に、おそらく関わり合うのだろうが、もともと知りたかったことについても調べて貰いたい」
 僕は、部屋の奥にある戸棚から、ソフトボールほどの水晶を取り出す。
「ほんま、人んちのモンよう知ったはりまんなぁ」
「お前の物は僕の物。僕の物はアレの物」
「厭な『世界』でんなぁ」
「仕方あるまい」
 水晶に手をかざす。しばらく念を凝らし、僕の記憶をそこへ移す。
「観るか?」
「ほなま、観さして貰いまひょ」
 水晶がほのかな光りを放ち、点滅し始め、点滅するに従い光度を上げ、蛍火程度だった光りは、視ている僕らを包み、部屋を染め、『世界』を同化し、すべての光りごと影を、彩を呑み込んで――
 僕らは記憶になり、記憶の中に融け込んでいく。
   *
 夢を、見ていた。
 それが夢だということは、分かっていた。
 夢だということ以外は、何も判らずにいた。
 それが、夢であるという夢を見ていた。
 僕はそのなかで、どことも知れない場所にいる。古代遺跡の廃墟? ……、だろうか。そこに身を置く体験的風景としては見知らぬ、ただ、どこかで見たような、まったく知らぬわけではないと思われる光景。
 鬱蒼とした深い森の、ぽっかり空いた窪地は、池の名残か、沈下の跡か。露出した木の根が絡みつくのは、石の建造物。敷き詰められた石の床。石の柱、石の天井。びょうびょうと風が吹き渡って、頭の奥にうるさく響く。

 子犬を捜すのだよ、はふり君

 その声を頭上に聞いて、僕は見上げた。崖に食い込んだ遺構の、アラベスク風に施された屋根装飾。その頭頂に、彼女はいた。闇夜に浮かぶ月を背景に、遙か以前から変わらず浮かべ続ける謎めいた微笑みで、僕を見下ろしている。
 僕は声を発しようとして、それがかなわないことを知る。ここは、彼女の統べる夢なのだ。僕の心身の自由は、僕のものではないらしい。
 僕は、ただ、彼女を見上げる。
 長い黒髪が風に揺られ、闇に溶けて月を覆う。月よりも白く輝く肌。見下ろすことに慣れた威厳を示す眼の光り。冷たくも、熱い視線。薄い唇が情も薄げに歪むのは、情深いゆえ。いたぶることでしか愛情を示せぬ、歪んだ君臨者の性癖。
 彼女は、やや眼を細め、言わんとすることは解ったのだろうねとでも言うばかりに、にやり、と笑い、僕に向けて息を吹きかける。
 きらきらと光る吐息は、視界に広がり、空間だと思っていたものを、光りの粒に変えていく。
 きらきら、きらきら、
 月の闇だった世界は、光りに覆われ、そして、儚くも、美しく、失われていく……。
   *
 まぶしい。
 瞼を透かして眼球を焼く陽差し。
 寝返りを打つ。
 目覚めがいつも清々しいものとは限らない。根拠の知れない焦燥感。緊張に神経がヒリつく。鼓動の高鳴り、過呼吸、激しい嘔吐感。記憶をたどる限りに、清々しかった目覚めなど、言葉には聞けども、僕自身は経験したことがない。きっと、都市伝説のようなものなのだろう。
 夢を見ていた。
 おそらくは、きっと、多分。
 なにやらエロティックなシーンだけが意識に残っているが、それだけではなかった。まぁ、追々思い出すだろう。僕にとって記憶とは、そう簡単に消え去ってくれるものではない。喩えそれが夢であっても。いや、夢ならばなおさらか。
 僕にとって、夢は夢であってただの夢ではない。現実と等価。あるいはそれ以上の意味と価値を持つ。内宇宙(インナースペース)。分裂し乖離した複雑な精神構造と、無限にも乖離した仮想人格が別個に持つ意志と記憶、それらを統合して創り出された仮想世界(ヴァーチヤルワールド)。その入り口。そのなかで繰り広げられる事象はすべて、『僕』を構築する上でなんらかの意味を持つ。
 そういう意味で――
 長いスプラッシュムービーだった。
 僕は、上体を起き上がらせようとするもかなわず、顔だけ向けて、恨みがましく窓を睨む。眠る前に、半分ほどカーテンを閉め忘れていたらしい。何時なのだろう。時計を視るのも億劫だ。もっとも、予定があるわけでなし、時間など知ったところで意味などないのだが。
 夢と現実の違いは何か。
 時折、考える。夢と現実の境界。あるいは、その区別を。考えたところで結論は出ない。いや、考えるから結論を見失う。感覚的に捉えれば、両者は別物だ。だが、しかし、本当にそうだろうか。
 はたしてそれは、音――、だったろうか。
 あるいはそう、音――、だったのだろう。
 伝わってくる、物理的な現象による空気の振動を受けて発せられる電気信号。未だ微睡みの中にあった肉体が、確かな目覚めを得ようとしている。正確には、僕という人格と、僕という身体の感覚器機能との連絡(リンク)が復旧し始めているというべきか。人格なるモノの実体が何であるかは、この際語るまい。
 大通りに面する豪奢な屋敷(マンシヨン)。近代の終わりに建てられた石作の堅牢でいながら、装飾の凝ったややゴシック調の建築。
 その門の前を何度も行きつ戻りつ、ちらちらと屋敷を見ながら、ためらっている人影。
 女――見知らぬ若い女。
 降りかかる事情をもてあまし、思いあまって訪れる。歓迎されざることは承知しながら……、そんなところだろうか。
 僕は見ている。どこから? 上空から。建物の窓からか。それにしては、肉体の感覚が薄い。まるで空気にでもなって、空から地上を眺めているような……。
 ――はふりさま、はふりさま?――
 誰かの呼ぶ声。遠くから聞こえる。遙か遠く。過去なのか、未来なのか。記憶の幻想からなのか、それとも――、
「はふりさま」
 夢の幻想が遠ざかり、現実(リアル)が迫る。
 現実が、すぐ側に……。
 あぁ、なんだ、これも夢だったのか。
「お目覚めですか、はふりさま」
 声に刺激され、僕は目覚めた。
 どうやら窓から微かに聞こえる聞き慣れぬ音に、無自覚な想像力が発揮されたようだ。夢現のうちに幻視をしていた。
 門の先に女はいる。見るまでもなく、今もいる。が、あちらから声を掛けてこない限り、こちらからどうこうもあるまい。
 傍らに温もりを感じて、開ききらない目を巡らす。
 ベッドに埋もれる僕を見下ろすのは、優美で柔和で過度な媚びを含む、少しだけ翳を帯びた微笑み。
「友梨香……、か」
 嗜虐的な衝動。
 返事を待たず腕を掴み、力任せに引き倒す。
 あ――、と漏れる声。
 友梨香の華奢な身体が、僕の身体に覆い被さる。薄い化粧の香り。微かな汗。お仕着せのメイド服が、彼女自身の一部であるかのように、似合っている。彼女はきっと、メイド服に合わせて創られたのだ。驚きも、怯えも、好奇も何もない、諦めだけが充ちた瞳で、僕を視る。僕は、無造作に頭をつかんで、顔を引き寄せ、口づけを強要する。唇を割り、舌で口腔を掻き回し、舌を犯す。手は、僕の右手はブラウスのボタンを弾き飛ばし、たくし上げた下着の下から、控えめな胸を鷲掴みにする。左手は、スカートをたくし上げ、下着の上から割れ目をなぞり、小さな突起をたどり当てる。
 彼女の身体が、びくん、と跳ねる。熱い吐息。鼻を鳴らして、声の漏れるのを堪えているのか。
 指が、熱くほてった欲求の坩堝へ分け入る。
 友梨香が、恥じらいをかなぐり捨てた絶叫をあげる。びくん、びくん、と身体を引きつらせ、どさりと僕の上に落ちて、
 そして、消えた。
 のし掛かるべき重量は感じず、温もりも、息づかいも、鼓動も、気配さえも、僕を包みはしなかった。そこにいた痕跡の一切が、消え去った。あたかも、始めからなかったかのように。
 なかったのだ、始めから。ここには誰も、僕以外、誰もいやしない。そんなことは、始めから分かっていた。
 残されたものは、静寂。意識が遠のくほどの寂寥、虚しさ。
 これは、そう、記憶。
 この手に残るしっとりとした触覚、むっとする甘美な女の匂い、舌に残る唾液の味。そのどれもが今ここで体験したのと何らかわらないほどに、確かで、偽りなく彼女そのものだった。
 けれども、それは実体をともなったものではなかった。僕の脳が過去に味わったそれを覚えていて、その感覚を蘇らせたにすぎない。
 記憶は、こうやって不意に襲いかかってきては、僕をその渦中に引き込み、踊らせ、惑わせる。
 瑞希友梨香は、僕の二番目の姉。半分血の繋がった、半分他人。僕にあてがわれた奴隷。僕の孤独を慰める玩具。それも、いまはない。
 脱力する意識を振り払い、ベッドから降りる。
 備え付けのクローゼットから、適当に、それこそ無造作に着れそうなシャツと背広を取り出し、だらしなくないように着る。下ろし立ての白いシャツ、胴の締まった黒のベスト、格子柄の黒のスーツ。タイは着けない。
「よく、お似合いですわ」
 僕の傍らに立ち、にっこり微笑む彼女。
 ※メイド衣装※が、少し痩せ気味の身体に、まるで生まれながらの個性の一部のように似合っている。
「友梨花――」
 消えた姉の記憶が、そこにある。
 手を差し伸ばし、そっと頬に触れる。温かく、柔らかい。姉は確かにここにいる。喩え、僕にしか見えなくとも。
 腰に手を回し抱き寄せようとすると、するりと身を躱す。
「今はいけませんわ。お客様ですもの」
 僕の耳元にそっとささやく。
 彼女は、記憶ではあるが、僕の中で僕の一部となり、僕のあずかり知らぬ演算機能と結託して、僕の中に心と記憶を持つ一人の人格として生を得た。『僕』を構築する無数の人格の中の一人となった。だから彼女はいつでも僕と共にいる。僕の傍を離れることはない。
「お客様は、いかがなさいますか」
 彼女は、指示を待つ痩せ犬のように僕を見上げている。肩から胸元にかかる艶やかに黒く長い髪から、細く病的にも白い頸筋から、微かに蒸れる脇から、彼女のオンナの匂いが香る。彼女をいかようになさしめるのも、僕の自由。いつでも愛せる。いつでも犯せる。
「秘め事は、陽が暮れてから……」
 友梨花が恥ずかしげにささやく。昼の日中に、無理矢理犯されるのが本当は好きなくせに。
 まぁ、良い。
 本来なら、他人などという蟲螻とは一切関わり合いたくない。接触したくない。最も忌むべき物だ。僕の生存が保証されるなら、僕以外の人間など滅び去ってしまえば良いと、本気で考えている。が、そうもいかない。現実ならば、面倒ごとが多すぎる。夢ならば、アレが許すまい。
「さて、どうする」
 傍らに控える友梨香の小さくて形の良い頭に手を回し抱き寄せ、上目遣いの瞳に問う。
「いかようにも。あなたの思うがままに」
 いつもの答え。友梨香はけっして意見を言わない。何ごとも決しない。ただ、僕の言うがままを、言うがままに果たす。それが自らの存在意義だというように。それが、自分に許された唯一愛情を示す方法なのだと言うように。彼女は、メイドであることを強要された、僕の姉なのだ。
 良いだろう。
 客とは、あの女。
 放って置いても良いのだが、ここはどうやら、何か知らの行動を起こさねばならないように思える。すべてが詳らかではないが、夢の中でそういうフラグが立っていた――ような気がする。追々思い出すだろう。
 建物は無駄に広い。なにしろ、前時代の終わりに建てられた屋敷(マンシヨン)だ。ただし、外側の古めかしさに対して、中は現代的に改装されている。あらゆる物がオートメーション化されている。そのうち、僕まで自動化されそうな気がする。
 階段を下り、玄関ホールを縦断して、一枚板を彫り抜いた二枚扉を引いて開ける。
 飛び込んでくる騒音(ノイズ)。扉の先は小さな玄関と路面へ降りる階段だけで、門を隔ててすぐに雑沓ひしめく通りへ面する。周囲には緑を巡らせてあり、その外縁を申し訳程度の塀が囲う。
 まず眼にはいるのは、化粧っ気の薄い小柄な女性。年は若いが、飾り気はない。いくらか疲れた印象がある。
 何かを探していたのか、扉の周りをきょろきょろと見回しているところに扉が開いて、肝を冷やしたという表情をしている。
 探していたのは、もちろん、ドアベルの類だろう。そんなものは、この屋敷にはない。必要がないからだ。人の来訪などないに越したことはない。あっても無視する。
 彼女の隣に立つのは、俯いた、顔色の悪い、目の下に隈を浮かべた、陰気な翳。姿が霞んでいて、誰かに視られることを恐れている。
 夢の中の足音は、確かに一人分だった。
 なるほど、存在が希薄なのは、この影の薄い翳は、現実の存在ではない。僕だけが視える映像。僕の五感が感じ取る、僕が認識し得ない情報から感得した、彼女の心理の可視化されたモノ。彼女は、心の中に、見た目以上の影を抱えている。
「ようこそ、メアリ・アン」
 溜め息を吐きたいのを堪えて、歓迎の素振りをしてみせる。厭味に見えないか気になるところだが、だからどうなのだと開き直る。
「あ、あの、どこかで、お会いしました?」
 僕は、彼女の貧相な胸にかけられたプラスティック片を指さす。
 ついでにその名札からは、彼女が、二ブロック先のスーパーマーケットの店員であることも知れる。そのスーパーが、開店十周年セール中であることも。
 彼女は、恥ずかしげに、いそいそと名札を外して手持ちのバッグにしまった。

※※※ここまで改稿※※※※※※※※※※※

 メアリ・アンのちらちらとこちらを盗み見る視線。
 青い瞳は、ややくすんで魅力に欠ける。そばかすの頬。朱い髪は無造作に束ねられて、肌も髪も、乾いてがさついている。あまり身だしなみにはこだわらないタイプなのだろう。あるいは、その暇もないのか。おそらくは二十歳よりも若いだろう年齢にしては、飾り気がなさ過ぎる。小柄で華奢。そうかといってかわいげが感じられないかというと、そうでもない。どこか、予感めいた、密かなナニかを感じる。磨けば光る原石かも知れない。
 しかし、その心情は慮るに値する。僕以外の誰かが支えてやるべきだ。俯く翳は彼女の側を離れない。物理的には存在しない、僕にだけ見える、僕の、彼女に対する心証が、ソレなのだ。
「さて、メアリ・アン。僕は君がどんな事情でここに来たのか知らない。どんな覚悟でここに来たのかもね。聞かせてくれるのかい? それとも、このまま帰るのかな。僕は、どちらでもかまわないだけど」
 最大限、人の良さげに振る舞う。
「あぁ、ちなみに僕はこの屋敷の主人で、取り次ぎの執事じゃないから。執事は雇わない主義なんだ。時々、執事の振りをした面倒なヤツらが紛れ込んでくることがあるのでね。アクマで執事ですなんて言って」
 悪魔など夢だけで事足りている。
「あ、あの、子爵さま。わ、わたしのような平民が突然訪れて……」
「それはかまわない。貴族連中が僕を訪れることなんてないからね。彼らは総じて臆病者だ。例外は、女性ばかりでね。彼女らにしても、大っぴらに訪れるようなことはかなわないから、僕はむしろ誰かの訪問に飢えている」
 これは、嘘だ。誰かとの面会など億劫でしかたがない。僕にその能力があれば、僕以外の人類は残らず死滅させてしまってもいいと思っている。一瞬で、指一本動かすだけで完遂せしめることが出来るなら。それ以上の動作は、面倒だ。その面倒くささには、耐えられそうもない。
 共生する限りは存在を無視するわけにもいかない。それだと、喰えない。残念ながら僕は、僕だけがフェードアウトしてやるつもりは毛ほどにもない。ゆえに、時には世間体というものも気にする。悪魔に魅入られた狂気の子爵というレッテルは、クソ下らない貴族連中を遠ざけるには良いが、生活を支える最低限の人付き合いに支障を来す。下々の者には気さくな子爵さまという評判を構築することに損はないのだ。
 それでも逡巡するメアリ・アンを、僕は待つ。本当は襟首を引っ掴んで、通りに放りだしてやりたいところなのだが堪える。特に予定があるわけではない。時間は無尽蔵にあるのだ。まぁ、数十年という刻をどうとらえるかにもよるだろうが。
 メアリ・アンが、意を決した一歩を踏み出したとき、僕は彼女の手を引き、ドアをパタンと閉じた。
 メアリ・アンの表情が緊張に引きつる。
 僕は、ふっと笑みを浮かべる。その笑みは、彼女にどう映っただろう。
「あ、あの……」
 何か言おうとする彼女の唇を、指一本で 封じる。
「応接室はこっちだ」
 メアリ・アンの背にまわり、耳元に、そっとささやく。鼓動も吐息も感じる距離だ。彼女の腰に手を回し、寝ていた部屋とは反対側の部屋に誘う。
 玄関ホールには、左右に二つずつ扉があり、中央の、シャンデリアと対になる階段をあがると、二階にはゲストルームが六室、階段の背後の奥にも、扉がいくつかある。
 そのうち、応接室というのを特別定めているわけではない。現時点で、比較的ましな状態にある部屋を選んだにすぎない。週一回家政婦軍団が進軍して来るのは、明日。十数人のベテラン家政婦が、一斉に屋敷中を片付け、清掃していくのは壮観なものだが、週一回に限定するのは、頻繁に呼ぶと友梨香が拗ねるからだ。彼女は何もできないメイドだが、メイドとしての矜持は残っているらしく、自分以外の使用人が屋敷の中をうろつくのをよしとしない。口に出していうことはないが、見るからに顔色が変わる。そのくせ、僕が家事を行うことには、平気な素振りだ。もっとも、そういう友梨香を慰めつついたぶるのが、密かな楽しみでもあるのだが。
 メアリ・アンは、確かに動揺していた。化粧もせず、飾りもつけない。女でありながら、女であることを最小限にまで押さえつけようとしている。にも拘わらず、メアリ・アンは、動揺し、緊張していた。
「案ずることはない、僕は、君を欲してはいない。そのことは、君が一番よく知っているはずだ」
 背後の翳が、揺らぐ。メアリ・アンの表情が曇るのと同調して。この翳のあるには、どうやら容姿のコンプレックスも一枚噛んでいるようだ。しかし、それだけじゃない。見た目のコンプレックスは、彼女の翳のほんの表層に過ぎない。その奥に、まだ何かある。
 僕には関わりのないことだけど。
「これでも一応、子爵だからね。一般の女性に色心をもよおすのは、推奨されていない。君のような可愛らしい女性でもね」
 メアリ・アンの表情に、ほのかな朱が差す。
「からかわないでください。わたし、女らしくなくて、見た目も良くないし」
 意図的に、そうしているのだろうけども。本人もそれに気付いていないのか。あるいは……。先走った下種な詮索など、悪趣味にもほどがある。
「そこのソファーに座って。楽に。とにかく、君は必要があってここに来た。必要がなければ、噂の狂人の巣になど来やしない」
「そんなこと……」
 僕は指一つで、彼女の言葉を遮る。なかなか、触り心地の良い唇だ。しっとりと弾力があり温かい。後ろの陰気なのが邪魔だが、それを祓えば、ペットの一匹にしてやっても良い。
「お茶でも淹れてこよう」
 耳元でささやいてやる。耳朶へ吹きかかる息にぴくりと振るえる肩を、そっと優しく触れてやる。と、メアリ・アンは、もう動けない。クッションの良く利いたソファーに、どさりと身を埋め、僕を見上げる。そして、赤くなる。
「あ、あの……、このお屋敷に、お一人で?」
 子爵自ら出迎えに現れ、茶を淹れようとは、予想外だったのだろう。邸全体が見渡せるわけもないのに、ぐるりと頸を回す。およそ八十平米の部屋。応接用のソファーとテーブルがあり、書き物机があり、本物の暖炉、奥にはベッドもある。ベッドはすべての部屋にある。すべての部屋で眠ることが出来る。どこで眠るかは、その日の気分しだいだ。見渡したところで、見られるのはそこまで。だからといって、何が分かるわけでもあるまい。人間は時に意味のない行動をするが、何か己の中に腑に落ちるものがあるのだろう。
 僕は剽軽らしく肩をすくめ、
「僕は見ての通り、冴えない、むさ苦しい、独り者の偏屈でね」
「はぁ」
 対応に苦慮したものか、ただ息を吐くメアリ・アン。
 愛莉が足元で、
「偏屈というところだけは、間違っていませんわ」
 もちろん、その姿は彼女に見えず、その声も聞かれることはない。
 黒ロリ姿の美少女。
 いつからそこにいたのか。いつからということもなく、今この瞬間に、現れたのだろう。コレも自動人影の一つだ。目尻の持ち上がった勝ち気な瞳。つんと澄ました小さな鼻。熟し切らない初々しい唇。黒髪を、少女らしく短く切り揃えている。レースをふんだんに使った漆黒のドレス。パニエで膨らませたスカートも黒い。胸に下げた十字架が信仰の証しであるとは聞いたことはないが、果たしてそういうこともあるかも知れない。愛莉は、二人の姉の幼少時代の思い出が融合した、僕の中での架空の少女。架空ではあるが、僕の記憶にはしっかり刻み込まれている。
 人の記憶は簡単に捏造される。自ら意図的にも、また潜在的な働きかけもあり、単に偶発的なこともある。いずれにせよ、人が確かだと思っていることは、存外、そうでもないことが多い。
 黒ロリの愛莉は、恥ずかしがり屋で人見知りのくせに、好奇心が強く、はにかみ屋で、内弁慶で、身内に対しては押しが強く、言い出したら聞かないところがある。まさに二人の姉の幼い頃の心を受け継いでいる。
 僕はかまわず、ドアを抜ける。
 キッチンには友梨香がいた。メイドである彼女には、もっとも似合いの場所だ。といって、べつに何をするわけでもない。僕をじっと見つめている。
 僕はケトルを火にかけ、ポットと二人分のカップを用意する。
「彼女、可愛いですわね。ひどく、虐めがいがありそう」
 友梨香がとろりとした瞳で一人言う。僕に聞かせるように。自らに聞かせるように。それは、まったく同じ意味なのだが。
 ダージリンの甘い香気が漂う。
 僕は、茶器を乗せたトレイを持って、キッチンを出る。愛莉が、くすくすと微笑っている。
「幽霊が出るんです」
 とメアリ・アンが言った。僕の淹れた紅茶を一口啜ってから。
 僕は薄く嗤う。僕の前で、幽霊を語るか。
「それは、どのようなものだね」
「あ、あの、わたし、幽霊って信じてないんです。ていうか、その、信じてなかったんです。今でも信じられないんですけど、でも、あれは、幽霊としか思えなくて」
「ひとまず、君の信条はいい。それはまた後で聞こう。まずは、君が見たことを視たままに話してくれないか」
 メアリ・アンは、また紅茶を一口啜って、
「おいしい。良い香り。……すみません、こんな良い紅茶なかなか飲めなくて」
「気に入ったなら、お代わりを注ごう」
 ポットから滴るオレンジ色のフルーティな香り。カップを鼻に寄せ、メアリ・アンがその香気を香る。
「あれは、エリー・ウォンでした。多分……、いえ、間違いなく、彼女でした」
 メアリ・アンは、カップの底に視線を沈め、オレンジ色の水面のその先を見つめている。
「彼女が現れるようになったのは、二週間前。ドリー・コランが失踪してから、一週間が経ったころでした
 ドリー・コランとわたしは仲良しで、よくお昼を一緒に摂りました。年齢が近かったのと、境遇がよく似ていたのが、互いを惹き付けたのだと思います。
 そのドリー・コランが突然、姿を消しました。わたしにすら一言の言い残すこともなく。それは突然で、何の前触れもなく、わたしはただ呆然としました。
 その一週間後に、エリー・ウォンの姿を見るようになったんです。彼女は、もう十年も前に亡くなっているはずなのに」
 さて。正直に言うと、今、僕は、悟られず欠伸を噛み殺すのに、苦慮している。深刻な話しらしいからと遠慮しているのだが、つまらん。
 傍らで愛莉が、視られることがないことを良いことに、はしたなく大欠伸をかいた。この僕が、柄にもなく辛抱しているというのに。容姿が美しいから許されるものの、美少女ではないただの少女なら、即刻、陵辱ものだ。黒いドレスを少しずつ引き裂いて、恐怖を味わわせながら、苦痛と快楽に溺れさすのも、また一興ではある。
 何をか感じたのか、愛莉が赤い舌をべーっと突き出して、つんと鼻を尖らせ、そっぽを向く。悪くないリアクションだ。その舌先に、舌先を沿わせ、擦り、摩り、敷き詰まる微細な突起を重ね、絡ませ、味わう――、今は、まぁ、止めておこう。
「あの……、聞いていただいてます?」
「ああ。エリー・ウォンとは、誰だね」
 ドリー・コランが職場の友人で、比較的最近に知り合ったのだろうことは察しよう。そういうことにしておこう。
「エリー・ウォンは、幼なじみで、小さい頃、ずっと一緒に育った、本当に仲良しだったんです」
「なるほど」
 続きを促す。どこまで聞けば、切りがつくのだろうか。
「それで、どうしたら良いでしょう」
 なんだ、終わりか。幽霊が出た情況とか、そういうのは語らないのだな。
「分からない」
「え?」
 応えを聞き返すとは、失敬だな。
「それだけの話しを聞いたところで、何も分かりはしない」
「そう――、ですよね。やっぱり幽霊なんて……」
「人に話しを聞きに来て、なぜ勝手に話しをまとめようとする」
 場をわきまえない遠慮は、ときに身勝手になる。
「す、すみません。じゃあ、幽霊は本当にいるんでしょうか」
「いない」
「え?」
 庶民というのは、なぜこうも結論を急ごうとするのだろう。それも、自分勝手に。
「君の思うような、いわゆる幽霊というものは、僕の知る限り、この世にはない。しかし、だからといって、死者の姿が蘇ってくることがないとは、それもまた言えない」
「仰ってる意味が……」
「今、分からなくても良い。そのうち、分かる」
「あの、エリー・ウォンが姿が見えるときの情況とか、お話しした方が良いでしょうか」
 いまさらか。
「まぁ、おいおいね」
 まどろっこしいばかりで、何も分かりはしないだろう。僕は、探偵ではないのだ。些細な事実から真実を探り出すことなど出来はしない。もっともまぁ、すでに大方のところは見当がついてはいるのだが。
 さて。いつまでもこうしてたところで仕方がない。
「紅茶のお代わりは、もう良いかい」
「あ、はい。もう、充分です」
「じゃあ、出かけるとするか」
 外に出るのは、実は久しぶりだったりする。愛莉と友梨香が、揃って意外な表情をしているのが、それを示す。僕が自ら率先して外へ出ようと言うなど想いもよらなかったのだろう。僕自身がそうなのだから、やむを得まい。しかしまぁ、たまには普段にないことをするのも、悪くはない。
 普段といえば、僕は、誰か人に会うこともなければ、物を買うこともない。必要な物は、週一回大量に買い揃えられる。僕は、常にそれを消費するだけ。散歩をする趣味もなければ、スポーツなど寿命を縮めるだけのものだと知っている。車はあるが、運転の仕方を知らない。したいとも思わない。呼べば運転手も来るが、どこかへ行こうという当てもない。邸にいて退屈することもない。よって、外出など必要ない。
 メアリ・アンを玄関ロビーに待たせ、外套とハット、手袋にステッキ、メリケンサックにアーミーナイフと紳士の外出に必要であろうものを揃える。むろん、ステッキは仕込み杖だ。備前兼光を鍛え直したもので、兜断ちの業物だと聞く。贋作だとも聞くが。こういった物の趣味は、すべて、家政婦頭のモリス嬢による。御年七十歳にして、現役の「女」であり続ける彼女は、今年、八回目の結婚をしたと聞く。彼女の、男を引き立てるための諸技術に抜かりはない。
 鏡を見て気付いたが、その白のドレスシャツにストライプの入った黒のスリーピーススーツはキマっているものの、顔を洗うのを忘れていた。髪があちこちに飛び跳ね、無造作というより無秩序な状態になっている。なるほど、初対面時の、メアリ・アンの不審げな視線はこのためだったのか。たしかに僕ほどの美貌に、この髪はアンバランスだ。だが、まぁ、僕ほどの美貌になると、どんな髪型も似合ってしまうから不思議だ。今日はこのままで通すことにしよう。あまり待たせるのも良くない。いかんせん、面倒くさい。
 二人で公園を歩く。
 池を囲む広大な公園は、低い丘陵にうねる小径に枯れ葉を散らす初冬の彩に染まり、陽光降り注ぐ青空は、周囲を取り囲む秋色を散らす山々の果てまで続いて、上空遙か無限の銀河にまで突き抜けている。
 なぜ、公園なのか。僕は知らない。メアリ・アンの望むままにやって来た。
 街ではかつて見たこともないような澄んだ青空。煤にまみれた埃っぽさも、車を牽いて街を行く動物の糞の匂いもしない、天然のままの新鮮で清清しい風。まるで、東部の丘陵地帯のような。メアリ・アンの出生の地であるところの。こういう場所になら、時には外出するのも悪くはないかも知れない。
 僕らは、かさかさと音をたてる枯れ葉を踏み踏み、ゆったりとした坂を上り、下り、登った。左手に、微風に水面を揺らす池を眺めながら。
「ちんたら歩いてんと、ちゃっちゃと附いて来ぃな」
 先導するのは(しているつもりなのは)、はぐれ座敷童のイク。枯れ葉の舞うのと、合わせて、くるくると飛び跳ねる。
 逆に、僕の右腕をひしと掴んでいるのは、愛莉で、初めての場所に不安なのか、僕の傍を離れない。跳ねっ返りで小生意気なくせに、意外におっかながりで、一人になるのを厭がる。風景は気に入ったようで、きょろきょろと瞳を輝かせて、感嘆の息を吐いている。
 まぁこやつらのことは、どうでも良い。
「単刀直入に聞くがね、君がエリー・ウォンとドリー・コランを殺したのかい」
 メアリ・アンが、瞬間、凍り付く。意味を飲み込めないようにぽかんと眼と口を開けて、僕を視ている。嗄れた声をようやく振り絞って、
「まさか、そんな、どうして」
「いや、だったら、楽で良いなと思っただけだ。物語りも適当に体裁が取れるしね」
 絶句して、それから何か言おうと口を開けたり閉じた入りするも、どれも言葉にならず、
「そんな、ひどい」
 とだけ、やっと言った。
 この驚きように嘘はない――ように見える。
「しかし、君は何かを知っている。どちらかのことについて。あるいは、両方のことについて」
「わたし、何も……」
「君は知らないのかもしれない。でも、君ではない君は、知ってるんじゃないのかな」
 背後の翳が揺らいでる。これはメアリ・アンの中に僕が見る、彼女の、彼女ではない心の顕れ。そのイメージ。
「懐かしくはないかい、この公園、この池。見覚えがあるんじゃないか」
「そんな、まさか、だって……」
「特にこの木なんて、思い出深いんじゃないのかい」
 一本のケヤキの大樹に僕は手を置く。僕らはさっきからずっと、この木の前だけを歩いていた。これだけ広い公園だというのに、この木の前からわずかとも外れず、ずっとこの前を歩いている。歩き続けていた。延々と。
「この木に、いったい、何があるのかね」
 僕は問うた。
「わたし、知らない。何も、……。この木の下に何が埋まっているかなんて」
 おやおや。まさか、そんな安直な展開だとは。まぁ、死体は埋まっていまいが。とすると、さて、何が埋められているものやら。
 腰をかがめて、木の根元を覗き込む。
 樹の根の裂け目からにょろりと現れたのは、蛇だ。意外に大きい。鎌首を持ち上げて、舌を突出し、威嚇する。
 なるほど。禁忌を守るものは、蛇、または龍。古典的なファンタジーのモチーフだな。
 メアリ・アンが、皇国では見ることのない大蛇の出現に、悲鳴を上げる。
 これは見えるのか。では――、
「愛莉、イク」
「おう」
「はいはーい」
 ちびっこい白と黒の影が空中で一回転しながら交差して、僕らと蛇の間に着地する。彼らの手には、それぞれの衣装と同じ色の巨大な大鎌。人の首を斬り落とすのにほど良い。
「この子たち、いったい、どこから」
 今まで目の前ではしゃいでいても見えなかったものが、今、見えるか。
「殺れ」
 僕の端的な命令に、子供らが応える。
「あいあいさー」
 緊張感のない奴らだ。
 愛莉とイクが緊迫感のない闘いを繰り広げているその間に、僕らはベンチに腰掛ける。丸木をえぐったそのベンチが、以前からそこにあったかなどは、愚問というものだ。
「何が、出てくるのだろうねぇ」
「あの、見てて良いんでしょうか。誰か呼んでくるとか」
「なに、心配はいらない。あれらは、ああいったことに長けている。それに、今ここには、僕らしかいない」
「公園を出れば、誰か……」
「公園の外はない」
 愛莉が背丈ほどもある大鎌を振り、蛇の鎌首を切断――、する間際、蛇は身体ごと宙に浮かせる。背に小さな蝙蝠のような翼。飛竜(ワイバーン)とは、洒落た芸を見せてくれる。続けざまのイクの斬撃をも躱した。
 おやおや、意外と粘る。
「今、僕らがいるこの世界は、この公園、それもこの木の周囲だけで、それより外はない」
 メアリ・アンが、なんなら電波系扱いしかねないほどの不信感溢れる視線で僕を視る。庶民の分際で。
「まぁ、そんなこはどうだって良いさ。じき、ケリが着く」
 息も吐かせぬ波状攻撃。イクの横薙ぎの一閃が蛇の翼を断ち切る。揚力を失い墜落する飛竜(ワイバーン)。バランスを失し、錐揉み状態で下降する蛇を、愛莉の大鎌の乱打が襲う。無数の傷を受け、深紅の血を撒き散らし、地に墜つる蛇に、愛莉とイクの同時攻撃。避ける術もなく、蛇は、鎌首を跳ばす。
「やった」
「やりましたわ」
 闘いの荒野に降り立った二人の天使。壮絶な死闘の末、勝利を収めた天使たちだったが、闘いの後のむなしさに胸を締め付けられる。しかし戦う天使に休息はない。そして今日も、二人は悪を倒すべく旅立つのだ!
「二人でつまらないモノローグを附けてるんじゃない」
 僕の叱咤も聞こえぬふりで、きゃっきゃとはしゃいでいる。何の影響を受けたものか。そう言えば、時々、うとうとして気付いたら附けた覚えのないテレビジョンに子供っぽい漫画が映っていたことがあった――、それか。まぁこいつらのことは、どうでも良い。あとで少し仕置きが必要だが。
 問題は、
「あの蛇の出てきた木の根の下を掘って見るか。あの下に何が埋まっているのか。メアリ・アンは知らないと言った。けれど、君は知っているのだろう。始めまして、僕の知らないメアリ・アン」
「あたしはメアリ・アンじゃない。エリー・ウォンよ」
 おやおや。
「死んでしまったかわいそうなエリー・ウォン。今さら、何の未練で湧いて出たものかね」
「随分な言いよう。ほんと、誰だか知らないけど、非道い人。でも、綺麗だから、許してあげる」
「それは、どうも」
 こういうとき美形は得だ。もっとも、情況によってはまったくの逆効果を及ぼすこともあるから、一概には言えない。
「死んだのはあたしじゃないわ。メアリ・アンよ」
 ほう。
「君が殺したのか」
「なんで、そうなるのよ」
「だったら楽だなと思ってね。じゃぁ、君はなぜ、メアリ・アンにならなければならなかったんだ」
「さぁ、知らないわよ」
「呼ばれもしないのに出てきておいて、無責任だな」
「あの蛇殺したの、あなたたちでしょ。そんなことするから、あたしが出ちゃったんじゃない」
 心外だとばかりに、肩を怒らせ抗議する。
 エリー・ウォンは、美しい。僕ほどではないが、そこそこに見れる程度には。なにより、自分の容姿を隠そうとしない。メアリ・アンと名乗った女は、常に伏し目がちだった。表情も暗く、感情を表に出そうとしなかった。泣き方ばかり覚えて、笑い方を忘れてしまった女に良くある内省性と頑なさを持っていた。容姿の造作は変わらない。変わったのは、中身だ。心の有様で、人の外観はここまで変わるのかという好例だろう。
「あの蛇は何を守っていたんだ。死体の一つくらいは埋まっててくれると、物騙り的には
盛り上がるのだけどね」
「さぁ、知らないわよ」
 今のさぁしらないわよと、さっきのさぁしらないわよは、微妙に違う。
「友梨香はいるか」
「お呼びでございますか、はふりさま」
 邸の留守居に残して来たメイドは、当然のこととして、僕の元に侍る。
「その木の根元を掘れ」
「かしこまりました」
 湯一杯沸かすことのできないメイドが、カップ一つ洗浄することのできないメイドが、膝丈ほどもあるシャベルで地面を掘り始める。
 ザクザク
 ザクザク
 コツンと刃先に当たる音。
 箱――、か。謎めいた装飾に意味はない。喩えそれが古代シュメールの紋様であったとしても、何の価値もない。箱は、ただの箱。物を入れる以外の用途はない。外観は、もったいつけに過ぎない。
 友梨香が警戒することもなく、蓋を開ける。
「これは?」
「顔の皮――でございましょうか。人の」
「そのようだな」
 広げて陽に透かしてみる。見覚えのない顔。もっとも、見知った顔とてこうなってはどこまで判別出来るか怪しいものだが。しかし、現時点で考え得る可能性は、多くはあるまい。
 果たしてこれは、エリー・ウォンのものか、メアリ・アンのものか。
「エリー・ウォンはメアリ・アンになりたかったのか。それとも、メアリ・アンがエリー・ウォンになりたかったのか」
 つまり、生き残ったのは、肉体の生まれ出た際にメアリ・アンと呼ばれた者なのか、それともエリー・ウォンと呼ばれ生まれた者なのか。DNA鑑定でもすれば即座に判明するのだろうが、生憎、僕にそんなスキルもツテもない。
「これは、君の物か」
 エリー・ウォンと名乗る女に、僕はその広げた皮を向ける。気味の良いものではない。
「あ、あたしの貌はここにあるわ」
 と自分の頚の上にある、東部の前面を占める感覚器官の配置を指先で指し示す。
 無論、そんなことは分かっている。だが、そんなことに露ほどの意味もない。この世界にあって、意味のあることなど極々限られている。五感として認識される情報は、他人の発する言葉と同じ、真実であっても真実でなく、偽りであっても偽りではない。真贋に意味はなく、信じることだけが意味を生じうる。その生じえた意味を読み解くことだけが、真実に近づく唯一の方法なのだ。
「その貌は、真実、君の貌かと聞いているのだがね」
「そんな、何を」
「何、簡単なことだ。この貌を当ててみればいい。この貌が君の貌でないなら、剥がれてくっつくことはない。この貌が君の貌なら、まぁ、元に戻るだけの話しだ」
 彼女の表情に怯えが見える。人の顔の皮を被れと言われれば怯えるに決まっている。生理的な気味の悪さは耐え難かろう。
 彼女は自分のことをエリー・ウォンと信じているのだから、その意味で恐れることはないはずなのだが、ただし、彼女という人格を構成するすべての記憶や機能が、すべて彼女という人格に内包されているわけではない。すべての人格に共有するそれもあれば、人格に影響されない、肉体としての記憶、機能ももある。彼女が、彼女自身の自覚する記憶にないことで、恐れを感じることもあるということだ。
 彼女が目を背けたのを機に、ベンチの上で身を滑らし、にじり寄る。腰を抱き寄せ、密着させる。今にも覆い被さるほどに、貌を寄せる。息と息が交わる距離。言葉を発すれば、発した言葉に引きずられて唇の先と先が触れ合ってしまうほどの。
「君は、君の貌を、本当に知っているかい。知っているつもりではあるのだろうがね。僕の瞳を良く見てごらんよ。僕の瞳に映っている君は、君が思っている君の貌をしているかね」
「あたしの――、貌……」
 エリー・ウォンが、僕の瞳を覗き込もうと、瞳の焦点を合わせる。意識を集中させる。僕がその機を逃すはずがない。彼女の瞳をじっと見つめながら、指先に独立した神経を集中させる。そして、
「さて、君は誰だ」
 彼女が、僕の瞳の中に何かを見出そうとするのと同時、エリー・ウォンと自らを信じる女の視界をよぎる、陽光を透かす薄膜。ひらりとかすめ、ふわりと被さる。額は額に、眼窩を除け、鼻は鼻に、口腔に沿って、唇は唇に、重なる。あたかも、ずっと以前からそうであったかのように。それは、そのために用意されていたかのように。一部の狂いもなく、その皮膜は、その者の顔に収まる。
 突き放すように身を離し、両手で顔を覆って、肩を震わせるのは、誰か。
「あたしは……、エリー・ウォン――……、わたしは、メアリ・アン――……、ドリー・コラン……、……わたしは……、……わたしは……、我はエルリック、我はエレコーゼ、コルム、ホークムーン…………」
 翳が、沸き立つ。目立たぬ翳だった影が、陰を抜けだし、喘ぎ、悶え、ぬるぬると、ぬめぬめと、ぬちゃぬちゃと、攪拌し、混ぜ合わされ、ぐらぐらと、ふつふつと、泡立ち、煮えたぎり、
 そして――
 世界が崩壊する。
 静謐。
 滞った時間。流れることのない刻。
 刹那瞬(プランクタイム)の中に取り込まれた囚人。
 世界の崩壊など、存外、簡単に起こるものだ。日々、毎時毎分毎秒、瞬間瞬間にも、どこかで世界が崩壊している。
 崩壊した世界の僕がいったいどこにいるのか。どこにもいない。僕はここにいる。こことはどこか。こことは、ここだ。
 現在というだけの時間。過去でも未来でもなく、一刹那瞬の間だけ存在する世界。刹那瞬のごとに生まれ変わる世界。崩壊と創造を繰り返しながら、可能性のごとに拡大していく無量次元。
 湖面に立っている。
 静かな湖面。さざ波ひとつ立たない。何ものの干渉をも拒む鏡面。水の平面。けれどもその下までが水によってなるかは分からない。湖面だけがある。それは確かだ。木立に囲まれた湖、遠くの山峰が見渡す限りを囲む。空は鈍く、雲ひとつ見あたらないというのに金属板のように平坦で、充分に明るいのに太陽はどこにも見あたらない。
 僕は、湖面の上に立っている。湖面は僕を拒み、僕の靴の底は、水の平面に触れていない。明らかに水であるのに、凍り付いたかに乱れることのない二次元の向こうに、僕の姿が、はっきりと映る。
 さて。甘く、見過ぎたか。
 どうも僕は、僕以外の他人を、総じて愚者として見てしまうところがある。自らを賢者とみなしうるとは思わないが、あまりにも物を知らない者、知っていてもそれを活かす術のない者、己の狭い見識を絶対視し見当違いの勘を閃きを勘違いする者、そんな輩が世の中に多すぎる。
 しかし、だ。愚者であるから何もできないとは限らない。一寸の虫にも五分の魂というあれだ。歪んだ意地でも、意地は意地。追い込まれると何をしでかすか知れない。愚者であるだけに、質が悪い。だから、時に、こうしてつまらない揚げ足を取られてしまう。反省すべきとは思いつつ、どうも、世の中、馬鹿が溢れているせいでなかなか身に染みない。
 この世界に、どうやら、僕ひとりきりらしい。外に生きたる者の気配は感じられない。湖を囲む樹々すら、生命の躍動を感じず、背景に配された作り物(オブジェ)のようだ。
 友梨香や愛莉、イクの姿も見えない。意図して消した覚えもない。そこそこに高度な精神集中をしなければ、僕の意志と関係なくあやつらは自動的に現れ、僕を翻弄する。僕のなかの、僕の知らない、僕の関与できない脳の仕組みが、それをなさしめる。抗う余地は、そう多くはない――のだが。
 世界の根源理のイニシアティブは、向こうに握られているようだ。だとしても、僕がその気で呼び出せば、呼び出せないこともない、だろう、が……、
 止めておこう。
 まるで僕が、一人では何もできないように思われてはかなわない。
 一歩、足を踏み出す。動くことは許されるようだが、身体は重い。静けさが重量をもってのし掛かってくるような感覚。
 静かだ。この静けさは、数年来記憶にない。
 平素味わうことのない情況に、ざわざわと心落ち着かない。と同時に、このままここに留まって静寂に融け込んでしまいたい誘惑にも魅せられる。ここには平穏があった。ついぞ得られることなどなかろうと思いこんでいた静けさと穏やかさが、ここにはあった。
 しかし、だ。あの時、その平穏を拒んだからこそ、今の僕があるのではなかったか。
 平穏を得ることは容易い。肉体を停止させればいい。肉体の死を越えて存在し続ける生命体はない。少なくとも、今のところは。幽霊など冗談にもならない。物理的実体なしに、しかも自己を認識し自律し活動しうる意志を持つ情報体などは、ない。ゆえに、死は、人格にとっての無だ。不滅のアートマンは存在しない。仮にブラフマンがあったとしても。
 ただし、それには死を受け入れなければならない。平穏と死は違う。死は必ずそのうちに平穏を含むが、平穏は死を必須としない。
 そして、精神は肉体の主人ではない。真実はその逆だ。精神などは、肉体が生存するするための、脳の中の装置に過ぎない。正確には、生命がと言うべきか。生命には、おそらく肉体という概念はない。肉体など、一過性のものに過ぎない。一個の肉体で永遠を得ることができないなら、無限の肉体を通じて存続すればいい。その存続していくものこそが生命の本質なのだ。人格などは、一過性の肉体をより効率的に維持し、また高次には次の進化ステップへ進むための広大なシステムの小さな一部に過ぎない。よって、自らの肉体を自ら意図して消滅させることは、精神の本来にはない。自殺はシステムバグか、オーバーフロー、もしくは、自己淘汰。健全な状態ではそれを忌避する、恐怖するようにできている。
 それは、僕という個体にとっても例外ではない。
 僕は死を拒んだ。途絶えることのない喧噪の中で生きることを選んだ。それでもなお、生きたかったのだ。彼女らとともに。
 湖面がわずかに揺らいだ。
 鏡面のように真っ平らだった水面に、わずかな歪みが生じる。
 それは影だった。湖面の向う側にあった僕の鏡像。姿形の瓜二つな、異界の僕。
 今、僕と真正面に対峙する。
「久しいな」
 と影が言った。耳に届く振動はない。唇の動きから頭の中で音声を生成する。無意識に。かつての記憶を呼び起こして。
 わが長兄。叔父であり、義兄である男。祖父の晩年の末子で、父の元に養子に出された。初めて会ったときから、いけ好かない男だった。今は、憎しみしかない。こんなものが、まだ僕のなかに残っていたのかと思うと、痛恨の極みだ。とはいえ、まぁ、容易に消せる記憶ではないことは、否定できない。消したつもりでいた僕が、浅はかなのだ。
 昔から、言われていた。姿形のよく似たこと。ただし、あれは品行方正で、僕は……、まぁ僕のとことはいい。とにかく、アレは陰険だった。力ある者の前では誠実な顔をし、弱い者には苛烈だった。裏であれこれ画策し、他人を追い落とすことに執念を燃やしていた。人々の服従を欲し、力ある者を自らの前に跪かせることを、無上の喜びとしていた。
 そんな奴が、美しい姉たちに眼を附けることは自明の理だった。
 全身を露出させた義兄は、瑞希計人は、人懐こそうな表情を浮かべ、旧交を温めようとでも言うように、ゆっくり歩み寄ってくる。人に好感を抱かせる、理想的な笑顔と言っても良い。その笑みに騙され、足下をすくわれた上に破滅させられた者は、知る限りにおいても数少なくない。穏やかな物腰、丁寧な言葉遣い、見た目の秀麗に、誰もが眼の端に潜めた冷たく鋭い針を見逃すのだ。恐るべき猛毒の沁み込んだ針を。
 あと数歩。計人が歩みを止めた。
 計人が湖面の下から引き上げるそれは、巨大な闘斧(バトルアツクス)。華奢な容姿、陰湿で狡猾な生き方に似合わず、剛胆なものを好む。あるいはだからこそか。幼女ほどの重量があるだろう武器(えもの)を、苦もなく軽々と振り回す。
 手を大気にかざす。この世界の上部を構成するナニかが、掌に集中する。大気と言っても良いし、エレメンタルと表現しても良い。似たようなものだ。大差はない。触れ得ぬ物が、触れ得る物へ組成を変質する。
 右手にレイピア。
 左手にソードブレイカー。
 どうせひと時の戯れ。さして時間も掛かるまい。お遊びに付き合ってやるのも一興ではあろう。
 唸りをあげ襲いかかる巨大な鉄斧の一撃。
 挨拶を返す間もなしか。良いだろう。
 見惚れるほどに優美な跳躍で身を捻り、着地する。完全に一分の隙もなく躱したつもりではあったが、はらりと前髪の幾本かが散る。コンマ数秒単位で感覚と身体の反応に差がある、か。この世界は僕向きではないらしい。
 わずかなとまどいを何と見たか。続けざま襲い来る斬撃。空間を振るわせ、風を切り裂く。圧力だけで、ありとあらゆるものを含む世界を震撼させる。
 水平に足元を薙ぐ凶刃。
 わざと体勢を崩して斧の横面に踵を着き、再び跳躍する。まさか、重い闘斧の攻撃が軌跡を変えようなど。下か振り上げられる鋼の塊、その巨大で鋭利な刃。宙空で身を捻る――が、躱せない、か。
 ガツ
 鋼のかち合う鈍い響き。
 ただの短剣(ソードブレイカー)と思うな。気の入れようが違う。力で押し返されるのを逆手に、体(たい)を返して計人の背後に降り立つ。
 計人が振り向く。
 その眉間に向けて、レイピアを放つ。
 ここで闘斧をかざすか。
 なかなか、やる。
 切っ先の折れたレイピアを捨てる。こうなっては、ソードブレイカーだけ持っていても仕方がない。それも捨てる。
 武器を失った僕に、計人が微笑みを向ける。まるで天使の微笑み。天使の皮を被った悪魔の笑み。
 必殺の意志を込めて振るわれる闘斧の一撃。
 さて、そろそろ終わらせよう。
 振り下ろされる斧の柄の先。完全に見切っている。避けるともなく、一二歩後退し、足で踏みつけ、身を乗り出す。
 睨み合うのも束の間、その眉間に突きつける、優美な筒。
 後ろ手から取り出したのは、コルトSAA(Single Action Army)―ピースメーカー―。なに、誰もべつに火器を使ってはいけないという取り決めをした覚えはない。
 瞬時のためらいもなくぶっ放す。
 躱す余裕はない。
 が、計人の身体が、沈む。比喩ではない。頭一つ残して、身体を湖面の下に沈ませる。にたりと笑みを残して、その頭も完全に水没した。その後に、銃弾がむなしく湖面を撃つ。
 あれは、そもそも湖面に映った僕の影。向う側への出入りは自由と言うことか。
 再浮上した計人が持つのは、M61バルカン。戦闘航空機に載っけるアレだ。人間が手持ちで扱う銃器ではない。
 計人が哄笑ともに、連装機関銃を掃射する。
 周到に計画を立てる癖に最後は力業。この男らしいといえば、まさしくそうだ。
 跳躍した軌跡を機銃の縦断が追ってくる。
 弾は無尽蔵。
 一瞬でも留まれば蜂の巣。
 しかし、僕に不可能はない。
 跳躍は大きな弧を描き、計人の頭上を越える。詰めの一手。ピースメーカーを構える。
 その腹から、突き出る、切っ先。
 迸る鮮血。気力が流れ出し、
 これは……。
 ぎこちなく振り向く。
 そこにいるのは……、誰。
 振り向くのは誰。
 誰が僕で、僕は誰だ。
 誰なんだ。
 僕のレイピアが、回転式拳銃(リボルバー)を構えたそいつを貫く。振り向く顔は僕と同じ。その先にいる、連装機銃を構えるのも。
 レイピアを引き抜くと、そいつは消えた。
 残ったのは瑞希計人――僕だ。
 かつての僕。瑞希家という環境が創り出した木偶人形(アンドロイド)。望まれるがままに己を殺し次期当主という役を演じた道化者。望まれるだけの技能(スキル)を得、望まれるよう振る舞い、望まれる蛮勇を振るう。それが自分だと思っていた。
 が、違った。
 気付いたのはずっと以前だった。けれど、気付かぬふりをした。そんなものがいつまでも続くものではない。
 そして、僕は捨てた。いや、消し去った。それも違う。ただ、僕は視ていただけ。何もできなかった。そうして、すべては消え去った。僕はすべてを失った。新たな「はふり」という名と、消えることのない記憶の他には。
 さて、感傷はもう、このくらいで良いだろう。
 立ちつくす偽りだった僕に、僕は手を差し伸べる。お前もまた、僕の一部ではあるのだから。どんなに忌み嫌おうとも、離れることは出来ない。どれほど逆らってみせようとも、切り離そうとしても、僕である僕を、僕が捨てれるはずがない。
 色彩(いろ)が消える。
 陰翳のない、偽りの色彩が。
 消える、消える、そして、消える。
 何も、かも。
 刻が、動き出す。
 光りが溢れ、呼吸し始める。
 そして、僕がいる。
 二人、並んで歩いている。傍らを歩く女。メアリ・アンと名乗る、ついさっき出会ったばかりの、幽霊について相談を持ち込んできた女性。
 さざ波の浮かぶ池を囲む、緩やかな丘陵の連なる公園。遠く周囲をぐるりと取り囲む山峰。遥かまで透き通った蒼い空。さらさらとそよぐ風に、はらはらと散る明褐色の枯葉。木立の中を通る径の小石が、踏みしめるごとじゃらりと鳴る。風の運ぶ、土の匂い、枯葉の匂い、水の匂い。ほのかに芳る、女性の肌の匂い。
「ちんたら歩いてんと、ちゃっちゃと附いて来ぃな」
 先導するのは(しているつもりなのは)、はぐれ座敷童のイク。枯れ葉の舞うのと、合わせて、くるくると飛び跳ねる。
 逆に、僕の右腕をひしと掴んでいるのは、愛莉で、初めての場所に不安なのか、僕の傍を離れない。跳ねっ返りで小生意気なくせに、意外におっかながりで、一人になるのを厭がる。風景は気に入ったようで、きょろきょろと瞳を輝かせて、感嘆の息を吐いている。
「なるほど、これが目的か」
 僕らの歩く径の見える範囲に、あのケヤキの大樹はない。
 イクと愛莉が、なんだか妙だというふうに首を傾げている。どうやらあの世界での記憶は共有していないらしい。
「どうかしましたか」
 メアリ・アンが気遣わしげに僕を視る。
 いやなに、君の中の君の知らない誰かに少々弄ばれていただけだから、気にしなくて良い。
 それよりも、だ。僕はいったい何をしているというのだ。僕は何のために、こんな茶番の中にいる。メアリ・アンと名乗るこの女の、心の真相に潜む二律背反による葛藤に結着を附けるためか。そんなものがいったい僕に何の関わりがある。ご近所との体面を保つためか。そんなものは、とうに崩壊している。ならば、なぜ。気紛れ、乗りかかった船、そんな理由でこれ以上の面倒に付き合っていられるのか。
 イクと愛莉がじっとこちらを見ている。
「まったく、こいつらときたら」
 思わず声に出してしまった一言に、メアリ・アンが不審げに目を向ける。案ずるな、精神などとうの昔に病みきっている。君と同じくな。
「さて、ここにはもう何もないようだ、場所を変えよう」
「場所、ですか。どこに」
「君の思い出の場所を巡ろう。どこが良い。君の人生で特に印象に残っている場所が良いな」
「わたし、皇都はあまり長くなくて、思い出深いところなんて」
「何を言っている、ここが皇都なんて誰が言った」
 僕は生まれてこの方、皇都を離れたことがない。無論、計人であった頃はビジネスで世界中を飛び回ったし、旅行もした。が、住居として他の土地に邸を持ったことはない。生粋の皇都っ子だ。その僕をして、こんな公園が皇都の中にあるなど聞いたことがない。そもそもだ、これだけ広大な丘陵地帯が皇都の中に収まるはずがあるまい。
「ここがどこだかを君は知っている。僕は、知らない」
「ここへ連れてきて下さったのは……」
「僕がいつここへ君を連れて来た? どんな道を通って? 乗り物は? それとも、徒歩だったか?」
「それは……」
 思い出せるはずがない。そんな行程は踏んでいないのだから。僕らは今ここにいる。それだけが真実。
「距離や時間なんてものは意味がない。そんなものは考慮しなくて良い。君はただ、君の思い返せる限りの場所を思い出してみればいい。その内で、特別に印象深い場所があれば、そこを強く思い浮かべれば良いんだ」
「そう言われても……」
「ああ、意識的に考えなくても良い……、反射的に思い浮かぶ……、あぁ、そうか。そこが君の――メアリ・アンの原点なのか」
 窓から覗く風景は、丘陵地帯の抜けるような青空、蒼碧と茂る山々の稜線、広い土地にまばらな建物――都会のそれとは掛け離れた、閑散とした田舎町そのもの。脱色したような真っ白な雲が、ゆっくりと流れゆくのを、誰かが窓縁の机に頬杖突いて眺めている。
 皇都ではない、おそらく東部のどこか小さなオフィス。個人事務所だろうか。
 メアリ・アンは、おっとしとしたふくよかな女性だった。結婚すれば良いお母さんになるだろう、そんなタイプだ。見るからに朗らかで性格の暗さなどはどこにも感じられない。昼時。昼食後なのか、ぼおぅと空を眺めている。
 さて、これは誰の記憶か。
 さっきまで僕の隣にいたメアリ・アン。痩せぎすで、どこか暗い印象の翳を背負った女。仮に数年後の姿としても、随分と隔たりがある。人相や体格はともかくも、骨格まで変わるものか。もっとも、人の印象などあやふやなものなのだ。記憶の中の人物像など、いかようにも変わる。
 そこへ、アルミサッシのドアを押し開けて入ってくる人がある。
 雇われ従業員というのは、一々名札を附けていてくれるので、こういう時、非常に助かる。名札を見れば、少なくともその集団の中で何と呼ばれているかが一目で分かるのだから。
 エリー・ウォンという名札を附けたその女は、僕のいるのにも気付かず、メアリ・アンのデスクに近寄る。どうやら僕は、この世界にまだ存在を認められていないらしい。
 すぐ横を通り過ぎながら会釈を交わすこともなく、向かいの机の椅子を引くと音もなく座り、やはり会話を交わすこともなく、二人並んで丘陵の空を眺めている。
 痩せぎすで、俯き加減で、表情を見せず、翳を引きずる女。
 さて、どこかで見た。
「あたし、遠くへ行きたいわ」
 とメアリ・アンが言った。見かけによらない倦み疲れた声だった。思いあぐねてつい声に出してしまった風でもあり、誰かに聞いて欲しかったのか、自分に言い聞かせるためだったのか、そのどれもであるようだった。
「美しくも可愛くもないけど朗らかで良い人なメアリ・アンでいることに、もう、耐えられない。あたしは、あたしを捨てたいの」
 そう吐き捨てた途端、彼女の人生が流れ込んできた。こんなことは珍しい。記憶の中の人物の記憶が溢れ出すなど。
 彼女は東部の典型的な中流家庭に生まれ、特別贅沢はさせて貰えなかったが、基本的には何不自由なく育てられた、フツーの家のフツーの少女だった。甘やかされて育ったせいで、幼少の頃からぽっちゃりとしていたが、どこか憎めない愛嬌の持ち主だった。
 一変したのは十三歳の頃。両親の離婚。父親との離別。見知らぬ土地。新しい父親。見知らぬ、若くて問題を抱える男との同居は、少女の心を大きく揺さぶる。そして、事件。大人の女へ向かう変化の兆しを見せ始めた彼女の肉体(からだ)を、欲情した獣が蹂躙する。一度ならず、何度も、幾晩も。母親のいない夜を見計らって。働かない義父の代わりに、母は夜の勤めに出ていた。嘘で取り繕ろわれた危うい日々は、長くは続かない。続こうはずもなかった。それは彼女にも予想がついていた。酒とクスリに溺れる義父は、露ほども考えていなかったようだったが。
 彼女の予想が大きく外れたのは、母親の取った行動だった。あまりにあまりのことで、十三の少女が想像できる範疇を遥かに超えていた。
 義父はこの世からいなくなり、母は刑務所にいる。
 すでに再婚していた父親に引き取られ、血の繋がらない母親と、義母の連れ御達とともに過ごす日々が始まる。そこで彼女は「好い児」でいることを学ぶ。誰にも嫌われない、誰にも疎まれない、いっそのこと誰からも意識されない、一緒にいて一緒に話しをしても後から思い返して果たして本当にいたのかどうか思い出せないような、そういう者になろうとした。
 父に申し訳なく、義母に申し訳なく、義兄弟たちにも申し訳なく思った。人々が表立って責め立てないことが、心苦しかった。重かった。せめて自分は誰にも迷惑をかけないでいようと誓った。求められれば、持てる物は何でも分け与えた。肉体を求められれば、それも与えた。嫌われたくなかった。必要とされなくとも、邪魔にされたくはなかった。けれど、兄弟との関係は両親の知るところとなり、家を出た。彼女は十八になっていた。
 彼女はいつも笑っていた。白痴のようだと陰口を言われようとも、朗らかでいた。
 いろんな男に求められた。星の数ほどの男に抱かれたが、同じ数だけ捨てられた。それでも彼女は笑っていた。
 美しくも可愛くもないけど朗らかで良い人――求めればヤラせてくれて身の回りの世話も焼いてくれる都合のいい女――、それが男たちの彼女に対する認識だった。彼女はそれで良いと思っていた。そうあるべきだと思っていた。ろくでなしの義父に初めて犯され、母はその義父を殺して刑務所行き。わたしはその娘。ろくでなしに見初められた女。殺人者の娘。
「あたし、もう、うんざりなの」
 臓腑を絞るようにメアリ・アンが言った。
「遠くへ、行きたいの」
 もう一度そう言って、遠くの空を眺めた。誰かの返事を期待してる風ではなかったが、言葉が風に流されて消えてしまうのは我慢ならないと、強く引き結んだ口元が語っていた。
「遠くなんてどこにもないわ。あるのは、ここと、ここじゃないところ」
 痩せぎすの女が言った。聞いた声だった。身動ぎ一つせず、遠くの稜線を見つめたまま。
 ふたりはまだ、一度も眼を合わせていない。
「ねぇ」
 メアリ・アンがエリー・ウォンに声を掛けたのは、これが始めてだった。
「あなたは、エリー・ウォンじゃないでしょう。身分証明の写真とずいぶん違うもの。成形手術したって話しだけど、嘘よね。あたし、そういうの分かるの。以前、ちょっとだけもぐりの医者の手伝いをしてたことがあるから」
 まぁ、ここのオーナーはそういうの気にしない人だけどと付け加える。そういう訳ありの者を好んで使うのだと。
「あなたはエリー・ウォンじゃない。ここのオーナーは気にしないだろうけど、労働局に知れたらあなたは職を失う。それだけじゃない、あなたの捨てた過去の自分が露呈してしまう。あなたは今、岐路にいる。何度目のかは知らないけど」
 二人は向き合っていた。
「あたしに、エリー・ウォンを頂戴」
 丸顔の女は、真剣な眼で言った。
「その代わり、メアリ・アンをあげる」
 しばし落ちる沈黙。
 痩せぎすの女は俯いて、机の上に指を絡めた両手を見ている。翳がよぎった。俯いた表情に翳が差す。それは果たして窓から差す陽の光りの加減だけだったろうか。
「わたしは、誰でもない。名前なんか、最初からない。誰でもないから、誰でも良いの」
 丸顔の女はにんまりと嗤った。この女には似付かわしくない、心底楽しそうでいて、陰を含んだ笑みだった。
「なら、あなたは今日からメアリ・アンよ。そしてあたしはエリー・ウォン。よろしくね、メアリ・アン。そして、さようなら。あたしは行くわ。どこか知らない街へ」
 エリー・ウォンと書かれた身分証明を受け取り、丸顔の女は、新たなエリー・ウォンは、てきぱきと荷物をまとめ、早々にも席を立つ。
「でも」
 痩せぎすの女は言った。
「あなたは、わたしよりもエリー・ウォンに似ていないわ」
 身分証に貼られた写真は、ほっそりとしてやや額の広い、鼻が高くて唇の薄い女のものだった。少しばかり化粧が濃く、派手な顔立ちと言えた。
「良いのよ。あたしは今まで、メアリ・アンでいる限り、痩せることも、オシャレをすることも出来なかった。許されなかったのよ。あたしは、努力して今の体型とキャラクターを維持してきたの。これからはもうそんな必要もない。無駄な肉をはぎ取り、思いっきりオシャレするわ。あたし、これでも男にはモテたのよ。これからは、あたしの前に這い蹲らせて、思う存分奉仕させてやるわ。なんだか、王女様になったような気分だわ」
 エリー・ウォンになって間もない丸顔の女は、期待に頬を上気させ、蕩けるような夢見る瞳であらぬところを見つめている。
 窓から差す陽差しが、暮れの彩に染まり始める。与えられた刻は、短い。
「じゃあ、あたしは行くから。あなたは好きにしなさいな。あなたがエリー・ウォンからメアリ・アンになっても、オーナーはきっと気にしないわ」
「あたしは……」
 何か考えを述べる前に、何の考えもないことに気がついて、メアリ・アンになった痩せぎすの女は、口をつぐんだ。
 俯いて爪先を眺めたあと、もう一度顔を上げた時には、エリー・ウォンはもういなかった。
 メアリ・アンは、かつてエリー・ウォンだった、あるいは今でも唯一エリー・ウォンであるあの美しい少女に出会った、最初で最後のあの日のことを思い返していた。
 森の中にいた。
 ここに僕は存在しない。存在しないことで、存在している。僕は世界そのものの外郭(アウトライン)であり、語り部だった。誰のための語り部か。それはもちろん……。
 深い深い森の奥。暗くて昏くて瞑くて、怖い。少女は怯えていた。ひどく怯えていた。その怖れは世界を通じて僕にもひしひしと伝わってくる。鬱蒼と茂る樹々、幾重にも巻き付く蔦、びっしり敷き詰める苔。湿り気を帯びた土の匂い、植物の放つ生命の臭気。
 頭上を覆い尽くす樹々の葉の、ほんのわずかな隙間から漏れ差す小さな光りから、今が昼だということが知れる。
 時間の感覚が失われている。少女は――僕は、ふらつく足元をなんとか堪えさせ、ゆっくり、ゆっくりと歩を進める。
 とにかく進まなければ。僕の脳裏にはその思いしかなかった。前へ、前へ、少しでも遠くへ、あそこから離れて。わずかでも、少しでも。
 ひもじさには慣れていた。身体のキツいことにも慣れていた。あたしは、ただ、働くだけの肉塊だから。
 あたしは、人間じゃない。人間には名前がある。どんな人間にも、名前がある。あたしには、それがない。だから、あたしは獣と同じ。でも、獣も人に飼われれば名前が附けられる。あたしには、ない。あたしは、獣にも劣る。獣、以下。だからあたしは肉塊。ただ、生きて、働いて、働いて、働かされて、いつか死ぬ。それだけの、物。
 日の昇る前に起き出し、家の誰もが寝静まったあと、わずかな眠りに就く。食事は一日二回。家人の食べ残しを、何だか判別のつかない状態に混ぜ合わせて一枚皿に盛りつけた物を渡される。中身もボリュームも日によってまちまちだったが、なぜが同じような味がした。
 あたしには名前がない。誰も附けなかったからだ。あたしを産んで捨てた女も、名前を残さなかった。名前をつける間もなく、捨てたということだろうか。あたしを拾った人々も、あたしに名前を附けなかった。「おい」とか、「てめー」とか、「薄ら馬鹿」とか、あたしを呼んだ。それで充分事足りていた。あの人たちは、あたしを自分たちの輪の中に入れたくなかったのだろう。名前を附ければ、まるで身内のようにあたしが勘違いすると思ったのだろうか。そんなことはあり得ないのに。
 それでもあたしは生きていた。ぎりぎりの状態で生かされているのだとしても、生きていた。息もした。食事もした。眠りもしたし、排泄もした。身体はどんどん大きくなる。わずかながら、女という性別を示す変化も現れ始める。あたしは生物だった。人間であるかどうかは確かじゃなかったけど、少なくとも生物であることは間違いなかった。
 美しさとは何だろう。人間の美しさは、人間にしか分からない。人間でないあたしの美醜は誰が判断するのか。誰もしない。あたしに興味を持つ者なんていないのだから。あたしの姿は人間に似ている。けれど、人間にしては痩せすぎていて、歳のわりに背も低いし、顔の造作は小さく眼ばかりぎょろりと大きく、顔色はくすんで煤黒く、日に焼けすぎた肌、腫れ上がり固まってひび割れた手、ぽっこりと突きだした下腹。少なくとも人間基準で美しいものではない。あたしは醜い。気持ち悪いという者もいる。でも、それは人間の価値観。あたしには関係がない。
 時々、あたしに名前を与えようとする人間に出会うことがある。家人に招かれた客で、礼儀正しく裕福そうで、自分がそうだということを良く知っていて、そうあることを望ましく思い、そうあろうと意識している、そんな人たちだった。あたしがそういう人たちと接することは少ない。家人がそれを厭がり、なるべくそうならないよう言い含められていた。それでもたまには、広い庭先で掃き掃除をしている時や、家の中で用事をしているときに客人が迷てあたしに道順を尋ねることがある。そういう人は、なぜかあたしに興味を持つ。慈悲をかける格好の相手なのだろう。もしくは変な趣味の持ち主かも知れない。
 どちらにしても、あたしは関わり合いたくなかった。客人と言葉を交わした後には、必ず非道く責められた。折檻を受けたし、食事を抜かれることもあった。
 あたしは人間でないから生かされている。人間になってしまったら……。あたしはどうなるのだろう。生きることを許されるのだろうか。
 ただ、あの人だけは。
「名前が厭なら名前はなくても良い。人が怖ければ人でなくても良い。ただ僕の物となって僕について来い」
 あたしは物としてこの言葉に揺さぶられた。物にも所有者を選ぶ権利があるんじゃないか。そんなことを考えた。
 あたしは――あたしたちは、村を出る計画をした。
 約束の日、約束の夜、約束の場所。彼は来なかった。彼は、あたしを盗み出そうとする泥棒として私刑を受けていた。他人の所有物を無断で持ち出せば、それは泥棒。犯罪なのだ。
 あたしは家に火を点けた。小火の騒ぎの間に彼が逃げ出せれば良いと思った。彼は逃げた。あたしと出会したとき、彼は、ひどく怯えて、あたしに対しても怯えて、わけの分からない言葉を撒き散らして、逃げていった。火は、風の吹くに任せて燃えさかり、家は全焼した。風の噂に、兄弟の一人が死んだと聞いた。数年が経ってからのことだ。
 あたしは、逃げた。
 森へ。
 深い深い、暗い暗い、森へ。
 昼なお暗く、普段は誰も分け入るのことのない森。木樵や猟師だけが入り、彼らでさえけっして深入りはしない。
 あたしは駆けた。ひたすら、奥へ奥へ。どこへ行き着くのか、行き着かないのか、そんなことを考える暇もなく、とにかく走った。走れるだけ走った。家人があたしを探すためにどれだけの手を打つのかは、見当がつかない。失せ物をしたとすぐに諦めるのか、意地でも取り戻そうと人を雇って捜索するのか。そんなことに関わらず、あたしには逃げるしかなかった。ただ、ひたすら走り続けるしか。
 どんなに走ることを得意とする生き物も、永遠に走り続けることは出来ない。当たり前のことが、我がこととして思い知らされた。
 森の中に、一人、へたり込む。
 もう、動けない。何もできない。何もしたくない。眠い。眠りたい。
 瞼が落ちて意識が混濁とするその瞬間。眼の端に見慣れぬ物が映った。鮮やかな彩。毒々しいほどに。自然の物とは思いがたい。なんだろう? やけに気にかかった。
 あたしは手近な樹の幹に寄りかかり、なんとか身を起こすと、わずかに見えたソレに向かって歩き出す。
 窪みを下りる。
 その陰に横たわるそれを、あたしは、美しいと思った。
 人間。たぶん、あたしと同じくらいの年頃の少女。家人が着ないような、鮮やかな色の服をまとった、まるでどこかのお屋敷のお嬢様か、お姫様のように思えた。
 彼女は仰向けに横たわって、身動き一つしなかった。あたしは近寄っても、何の反応も示さない。眼はわずかな空を探して見開かれている。眠ってるわけじゃなさそう。でも、起きてもいない。じゃあ……。
 あたしは彼女の横に座り、開いたままの眼の前にひらひらと手をかざしてみる。――、反応はない。手首を掴んでみる。何も感じない。胸に耳を押し当てる。何も聞こえない。
 あぁ。
 彼女は死んでいるのだ。
 何らかの理由で、彼女の生命は失われてしまった。
 どうしてこんな森の奥にいるのか。一人で来たのか。自殺なのか、他殺なのか、事故なのか。こっそりと隠れ見た、家人が見るテレビの探偵物のシーンが思い浮かぶ。名探偵なら、些細な物から真実を見つけ出すのだ。もちろん、あたしにそんなことが出来るわけないし、そんな必要もない。
 あたしは、それまでの疲れを忘れ、敏捷に動いた。彼女の着ている物をすべて剥がしそれを着て、あたしの着ていた物を彼女に着させた。鞄の中にあった手帳を一枚破り、遺書を書いた。それからあたしは、彼女を――エリー・ウォンを焼いた。
 その瞬間に、あたしはエリー・ウォンになり、その焼死体は、名前のない、ある一農家の所有物のなれの果てだった。
 あたしは、名前を得た。人間になったのだ。
 嬉しいよりも、怖かった。どうして良いか分からなかった。どうやって生きればいいか。とにかく、森を出ることだった。人のいるところへ行かなければならない。でなければ、生きることは難しい。でも、家人を知る者のいるところ、エリー・ウォンを知る者のいるところはダメだ。遠くへ。ひたすら、遠くへ。行き着くところまで、遠くへ行かなければ。
 窓から見える山峰は、すっかりオレンジ色に染まっていた。
 どのくらい自失していたのか、メアリ・アンは我に返った。どうやら僕は、未だ世界の外郭(アウトライン)に取り込まれたままのようだ。
 エリー・ウォンは、今頃どこまで行ったのだろう。彼女はエリー・ウォンにはなれない。エリー・ウォンを名乗ることは出来る。でも、エリー・ウォンにはなれない。名前はなんかはともかく、彼女は彼女でしかないのだ。あたしがあたしでしかないように。
 変わろうとした。エリー・ウォンのように垢抜けた女になろうとした。けれども、結局は何も変わらなかった。自分は自分でしかない。そのことを思い知った。おそらく、彼女も遠からずそのことに思い当たるだろう。あたしには、関係ないけども。
 ドアを開けて誰かが入ってくる。オーナーだろう。退社を促しに来たのだ。彼女のいないことをどう説明しよう。説明は要らないかも知れない。ここのオーナーは変わってる。あたしが勤める時にも、何も聞かなかった。そのかわり、少しばかり個人的なお付き合いを申し出られたけど。
 その人は、私の向かいの席に座る。
 オーナー、じゃない。
 知らない人。知らない……?、本当に?
「わたしはあなた、あなたはわたし」
 そういった人の姿は、はっきりとは見えなかった。ぼんやりとだけど、エリー・ウォンに似ていた。メアリ・アンにも似ていた。そして、あたしにも似ていた。
「わたしはあなた。すべてのあなた。あなたの心のすべてを知っている。あなたの望みすべてを」
 身を乗り出したソレは、陰気な翳だった――家にいる頃のあたしだ。希望に満ちあふれ輝いていた――始めてエリー・ウォンをみつけた時のあたし。絶望に打ちひしがれていた――メアリ・アンと出会った頃のあたしは、人間になれきれない、人形でしかない自分に深く絶望していた。
 いろんなあたしが一度に現れ、そして、一つになって、解け合う。
 意識が遠ざかる。ぐるぐると世界が回る。窓から差す光りがオレンジ色から、真昼の明るさを取り戻し、朝ぼらけ、夜の闇、ぐるぐるぐるぐる……。
 あたしは……、僕は……、
 小鳥の鳴き声。
 遠くで聞こえる。
 葉の擦れ合う風の音。
 さらさら、さらさら――
 明るい陽光。爽やかな風は、少しばかり肌寒い。
 公園のベンチにふたり腰掛ける。
 ケヤキの大樹の下。はらはらと舞い散る木の葉。
「あたしはメアリ・アン。エリー・ウォンとは小さい頃か仲良しで、一緒に育った。ある日エリー・ウォンは森で死んでしまった。あたしはずっとエリー・ウォンに憧れていて、ずっと彼女のようになりたいと思っていたから、遠いところへ行ってエリー・ウォンとして生きようと思った。その時、あたしはメアリ・アンを殺した。だけどあたしは結局エリー・ウォンにはなれなかった。あたしはあたし。別の誰かになれるはずもない。だからあたしは、メアリ・アンとして行き直すことにした。故郷には戻れないから、皇都に出てきたの。そこでスーパーのレジ打ちとして……」
 箱から取り出した「顔」には、顔がなかった。表情といえるものが何一つなかった。ただ目鼻口が並んでいるだけの、仮面のような顔。名を与えられなかった者の、人として認められなかった物の。
 それを彼女の顔に重ねた時、ぴっとりと符合した。彼女はメアリ・アンでも、エリー・ウォンでも、ドリー・コランでもなかった。名を与えられなかった人形。人形であることを一度は受け入れ、人を怖れ、人に憬れ、人にならんとした、あわれな物。
 二人の彼女がいる。
 ただ、静かに生きたいと欲した者。たとえ借り物の名で、人と言えない生き方だとしても、ひっそりと生きたいと願った者。
 一方で自分を欲した者。誰でもない自分という個性を、名に頼ることなく、自分の生き方で示したいと願った者。
 けれども、どちらもうまくいかない。
 そして、三人目の彼女がいた。
 彼女は欲した。無を。すべてを消し去り、零からやり直す。
 あなたなら、それが出来るんでしょう?
 と彼女は言った。
 僕は応えない。
 彼女は眼を閉じた。
 僕は、その瞼に、そっと触れた。
   *
 ……、という夢を見たんです」
 粕壁彗は、一気に話し終えると、僕の淹れた茶を、ずずーっぅと音を立てて飲み干した。
 かなかなと鳴く蝉の声。秋の虫の声も聞こえ始める。季村に、秋の気配が訪れようとしていた。
「どう思います? はふりさん」
 彗は、はしゃいだ声で問いかける。
 西美濃の山奥にある我が家。玄関横にそびえる立派な枝垂れ桜の壮観さから、桜屋敷と近隣の者から親しまれる。僕は、ここを先代の守人から託された、まぁ管理人のようなもの。家の背後の山に祀られた神さまの守りも兼ねている。神職というほど大仰なことはないが、立場的にはそれに近い。ただ格式張った神社のような建築物はなく、僕は日がな一日この家にいる。朝夕に山に入って、掃除や、お祈りを少しするだけだから、気軽なものだ。
 その気軽さに付け込んで、村人が良く訪れる。たわいない世間話から、結構深刻な家族間の悩みの相談まで、さまざまだ。僕は一々それを聞き、簡単な助言や忠告をする。それも、僕が引き継いだもののうちなのだ。
「どうだろうねぇ。なにか君の中の欲求が反映しているのかも知れないねぇ。例えば、変身願望とか。他人になりたいって人は、案外、いるものだしね」
「うぅん、あたしは、あたしでいいなぁ」
 彗は笑って言った。そう言えることの幸せがどれほどのものか、本人は自覚していないだろう。
 その後、学校のこと、カッコいい男の子のこと、意地悪な先輩のこと。頂き物の饅頭を摘みながら、いろいろ話した。
「じゃあ、あたし帰ります。あたしのこと心配するような両親じゃないけど、遅くなると怒られるし」
 いつのまにか、とっぷり陽が暮れていた。
 怒るってことは、心配されてるってことだ。言わずもがなのことを、あえて言葉にして言う。彗は、照れくさそうに笑って、そうだねと言った。
 彼女が帰ると、山奥の一軒家は、しんと静まりかえる。
 さて。
 僕は、衾の引き戸を開けて、部屋を出る。
 そして、いつもの部屋に戻り、後ろ手にドアを閉める。
 ぱたんと音がした。
 およそ八十平米の部屋。応接用のソファーとテーブルがあり、書き物机があり、本物の暖炉、奥にはベッドもある。
 この部屋は、たしか、階段の右側二つ目の部屋だったか。――違ったかも知れない。どちらでも良い。
 僕は、ソファにどかりと腰を下ろす。
 ちなみに、ドアの向こうはもちろん、エントランスホールだ。言うまでもないだろうが。
 ドアの傍にはユリカが立っている。愛莉とイクが、テーブルを挟んで向かい合ったソファでじゃれ合っている。いつもの、光景だ。
 背広のポケットから携帯電話を取り出し、アドレス帳に唯一記録された番号をコールする。
 三十分ほど後、彼女は現れた。
 一応、僕の主治医ということになっている。契約により拘束された主治医だ。開業はしているが、僕の用がすべてに優先する。
 とはいえ、実質的には、小間使いと変わらない。内向きの用事は家政婦軍団がすべて整えてくれるが、外向きの用はそうもいかないので、彼女に強要している。法外な契約料を取りながら、他に出来るのことがないのだから仕方がない。僕の精神に立ち入ることは、いかに皇国国立大の主席卒業生といえども、不可能だったようだ。
「緊急の連絡のあった患者が待ってるのだけど」
 彼女は、そわそわと落ち着かなげに言った。
「だから?」
 僕はにこやかに応える。僕にいったい、何の関係がある?
 彼女は、諦めの溜め息を吐く。
 僕は、ソファの角席に深く身を沈める女を指さし言った。
「君のところでケアしてくれ」
「病状は?」
「寝ている」
「ふざけてるの?」
「ふざけてはいない。彼女は眠っている。そして、永遠に目覚めない。彼女は季村の住人になったからね。彼女の眠りが途切れる時は、彼女の命が燃え尽きる時だ」
 彼女は了解して、女のところへ傍寄った。脈を取り、瞳孔を確かめる。
 彼女はちらりと僕を視たが、僕が手伝う気など毛頭ないことを察すると、また諦めの溜め息を吐いて、女をなんとか抱きかかえようとする。
「あぁ、それと、ドリー・コランという女を捜してくれ。多分、生きちゃいないだろうけど」
「誰?」
 女とはいえ、眠った者を抱え上げるのはかなりの労力を要する。ままならないいらいらを言葉に載せて、彼女が問うた。
「彼女の次の名になるはずだった女だよ」
「意味が分からないのだけど」
「君は、いつから僕に説明を求められるほど偉くなったんだい」
 諦めの溜め息。僕は、この溜め息を聞くために彼女をここに呼びつけるのかも知れない。
「見つけたらどうしたら良いの」
「捨てておけ」
「え?」
「何もせず放っておけばいい。ただ、どんな女だったかだけ、教えてくれればいい。あとのことなど、僕のあずかり知ることじゃない」
「相変わらず、ホント、ろくでなしよね」
「何かまずいか」
「いいえ」
 彼女は出て行った。さっさと出て行けば良かったのだ。用事を言いつける以外に、用などないのだから。
   *
 夢を見ていた。
 夢の中で、僕は、やはり僕だった。僕というのがどのような容姿、どんな記憶、どんな人格を示していようとも、僕は、やはり僕だった。僕でしかなかった。
 月の宵闇にくっきりと丸く浮かんだ夜。ヨーロッパ風の宮殿のテラスにいた。どうせなら中世貴族風の衣装なら面白かっただろうに、僕はいつものモリス嬢コーディネイトの背広姿だった。
「で、子犬は見つけたのだろうね」
 声の方を振り向く。
 あぁ。僕は思わず嘆息を吐く。
 この世に美という観念を結晶化できるなら、きっとこんな姿をとるのだろう。そう思わせるにたる、それは、僕の麗しき姉の姿だった。
 宮殿からテラスにゆっくりやってくる。
 いわゆるプリンセスラインのふっくらしたドレスは、それと分からないくらい淡いピンク色で、
 普段ラフなジーンズや、シックなモノトーンを好むくせに、時々こういうのを着てみせる。そしてそれがまた似合ってしまうのだ、この人は。
 僕はもう、言葉を発することすら、畏れ多く思ってしまう。
「返事は?」
 真登香がつかつかと歩み寄って、僕の胸を指で突く。
 身長は少しだけ僕の方が高い。それが気に入らないとばかりに、つんと顎を上げ、キツく僕を睨める。その視線に、僕はぞくぞくと身を震わせる。夢でなければ射精していたかも知れない。
「そんな情況はどこにもなかったよ」
 僕は苦しい言い訳をする。
「誰が情況に任せろと言った。わたしは、子犬を捜せと言ったんだ。捜したんだろうな」
 ぐうの音も出ない。情況任せでなんとかなるだろうと高を括っているうちに、ついつい、失念してしまった。
「すみません。頑張ります」
 僕は夢から覚めた。眠りから強制退去させられたと言う方が正しいかもしれない。すんわち、ただちに取りかかれと言うのだ。なんとも、人使いの荒い姉君だ。
 まぁ、だからこそ……。
 愛しき、僕の暴君。麗しの王女様。

 子犬を捜すのだよ、はふり君……
2010年12月12日(日) 19時10分04秒 公開
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■作者からのメッセージ
頂戴したご意見を元に冒頭を書き直し書き直ししました。

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No.9  お  評価:--点  ■2011-01-07 00:01  ID:E6J2.hBM/gE
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ぼつぼつ、ええ加減に返答せいよという、心の声が聞こえてきました。

>HALさん
どうも。
今回、どうにも参りました。
なんせ、僕の想定と真反対の指摘が来たので。
僕は、冒頭の方がむしろ自信があったのです。やりたいことやってやったぜ!的な。ようするに、一見してよく分からない映画の倒錯感というか場面転換の錯綜感とか、そういうのを文章であるていど再現できたんじゃないかと。で、逆に後半の方は、尺のつごうで、独白を延々と続けてるだけのもので、小説にすらなってねーやと思っていたので、ここはまぁ、中盤を削って、後半をなんとかボリュームアップしないとなぁと考えていました。
ところが……。
まぁ、結局、今回、尺を伸ばすことにしたので、前半もがしがし書き換えて、初っぱなからどんどん、話し膨らませてます。で、まぁ、今回は僕のやりたいことを通そうってことでやってるので、書き直したものを見ても、多分、HALさんのお気には召さないだろうと思います。まぁ、それはそれで良いのです。やりたいことやってなんぼの素人創作ですからね。
誤字報告、ありがとうございます。参考にします。

>うっちー
かんそ、あったーす。
うっちーの助言にしたがって、今、大幅増量に向けて改稿中です。まぁ、遅遅として進みませんが。
そのうち、なんとかなるだろうと。
あぁ、ちなみに、今以上に読みやすくはならないかなぁという気はしてます。
誤字報告、サンクス!

>楠山さん
綺麗な、ちょー美麗なイラストありがとうございました! ちょっとどころじゃないく感動です。うっちーがうらやましがってた。えっへっへ。
楠山さんのオコトバで勇気が出たので、一般受け的な妥協よりも、自分のやりたい方向で突き進もうと思います。
どうもありがとうございました!

>licoさん
どもども。
そのバージョンの冒頭は没にしました。
掴みとして色々考えたんですが、うーん。
これはこれで、ありかなとも、未だに思うところはあります。
ただ、初稿よりも抽象度を下げたけども、ただ、内容が少し重くなったのかなぁとか。さすがに、本編前の回想的な部分で、この分量は長いかなぁと思ったので、改稿。
次のも、長いのは永いんですが、ストーリー仕立てにした分、あからさまな冒頭・本編という区切りが和らいで、全体を長くすることで、比率を減らせるかなと思っています。
最終的には、350越えが目標です。
誤字報告ありがとうございます!

>弥田さん
どもどもです。弥田さんのお魚さんの話、すげーいいす。影響うけまくってまいました。魚ちゃん、どこ出ださそうかな。
分からなくても面白い。分からなくてもかっこいい。僕が最近、それを思い知らされたのは、「ニューロマンサー」でした。なんだか、よくわからん。でも、おもしろい。カッコいい。分かんなくても良いんだ、わからさなくてもいいんだ。その錯綜感や、退廃感、その他諸々、感覚的な部分で楽しんで貰うことが出来れば、理屈や展開の細かな理解なんて、些細なことなんだ。とか、思ってしまいました。まぁ、極論ですが。
前半は、がっつり手を入れますが、後半は、尺が気になって、どんどん手抜きになってます。それでも、ぎりぎりでした。
うっちーの勧めもあって、350枚挑戦しようと思ってます。書き上がるかどうかは、神のみそ汁ですが。

>ゆうすけさん
毎度お世話になっています。
おぉ。マイケル・ムアコック。いいすね。僕は、エルリックしか読んでませんけど。でも、いいす。これを書くに当たっての根底には、確実にエルリックサーががあります。アレなしで、この話しは書き出せなかったでしょう。偉大な物騙りだと思います。作中に出したのは、そんなところの思いからですね。展開的には、何の意味もありません。ちょっとした悪戯です。
ありがとうございました。

>鮎鹿さん
せっかくなので、こちらも思った通りのことを。
昨今は、漫画なんかもしっかりとした取材やなんかで、複雑な作りになっていたり、セリフがそこそこ専門的だったり、長かったり、難しかったりするものもあるようですが、どなたかが、そういった漫画をすら読むのが億劫になった人がジュブナイルなんかに流れてると言ってました。ちょい昔の宮崎駿御大ですが。
基本的に僕は、セリフだけ追って展開が分かるような小説は、小説でなくて良いんじゃない? と思っているので、鮎鹿さんとは真反対の価値観です。なので、僕の作品のどれを読んでもきっと面白くないと思います。
なぜなら、僕は世界中の人を楽しませることの出来る作品を書こうなんておこがましいことは少しも思っておらず、であるからには、想定上切り捨てざるをえない読者層というのがあり、それが、上記のような人々だというこうとになります。
まぁ、こんなことはある種、言葉遊びなので、たいした意味はないのかもしれませんが。
いずれ、僕のを読むよりも他の人のを読んでください。僕のを読んで、鮎鹿さんが楽しまれることはないです。……と、前にも言ったかも知れません。逆もしかりで、ぼくも、鮎鹿さんの作品では、おそらく楽しむことは出来ないでしょう。
それだけのことです。
No.8  鮎鹿ほたる  評価:10点  ■2011-01-06 15:30  ID:O7X3g8TBQcs
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こんにちは。
すいませんがポリシーにより、思ったことをそのまま書きます。

なに、書いているのか全く分かりませんでした。

雰囲気に頼りすぎていると思いました。ドラマが始まっていないのにアクションをやってしまっていると思いました。
私はドラマ作家(アマ)でドラマしか読まないタイプなので御作とは合わなかったのかもしれません。普通に小説を読んでいても薀蓄の部分は飛ばして読んでいます。それで面白いものが私にとって面白い作品なのです。合わないってことは良くあるので 語り の部分がメインでしたら気になさらないでください。
ではでは。
No.7  お  評価:--点  ■2010-12-29 19:46  ID:E6J2.hBM/gE
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ご意見を元に冒頭のみ書き直した5稿目です。これで、一応の目処にしたいと思っています。いかがでしょうか? 各個々人さまへの返答は、また。
No.6  ゆうすけ  評価:40点  ■2010-12-27 14:29  ID:1SHiiT1PETY
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拝読させていただきました。

冒頭部分、丹念に織り込まれた描写の数々、夢の中のおぼろげで不確かな世界を見事に表現できていると思いました。おさんならではの書き出しだと思います。
記憶の中の存在が、幻影として現れる世界の夢……なのでしょうか? 夢と現実を揺れ動く世界、読んでいて世界がぐらぐら揺れて、心が揺さぶられているようです。
その美味を味わうために、複雑に絡み合った皮を一枚一枚剥いていかないといけないようにも感じました。
イクは、おさんの分身の一つであるように感じます。或いは作中のキャラ全てが。
エターナルチャンピオン! これ私大好きですよ。この場面で名前が出る意図がやや不明ですが。自分が自分だか分からない、同一人物の異次元バージョンによる不思議な世界を意味しているのでしょうか。
幾重にも丹念に重ねたねっとりとした描写、軽妙でとぼけた味わいのあるキャラ、適度に淫猥なエロス、そして不思議な世界と、おさんの魅力が詰まった力作だと思います。
No.5  弥田  評価:40点  ■2010-12-27 02:43  ID:ic3DEXrcaRw
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拝読させていただきました。

ぬおおお、よく分からない……!w
あれです。ちょっとドクラ・マグラを初めて読んだときの感覚に近いものがあるかも知れません。大まかにわけると違うんですけど、細かく言うと似ているって感じです。……自分でも言っててよく分かんないんですけど汗
でも「よく分からない」って部分がちゃんと楽しめるようになっていたので、別に負の要素ってわけでもなく、むしろ正の要素で、……ようするに面白かったですw
あとオチの付け方がすごいですね。すごい綺麗にオチてます。よかったです。

というか、これ電撃用なんですか。ぼくはどっちかというとメフィストとかの方がイメージに近いかな−、と思いました。なんとなくですけど。

前半はなんかエロくてよかったです。耽美的。後半はなんかぐちゃぐちゃしてて、右に左に翻弄されました。文章も展開も怒涛でした。

なんかあんまり中身のない感想でごめんなさい汗
No.4  lico  評価:30点  ■2010-12-17 15:34  ID:YWND3YBhwp6
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 読ませていただきました。こ、これは……感想をきれいにまとめる自信がないので、感じたことをそのままつらつら書かせていただきますね。長くなります、はい(汗)。

 まず冒頭。最初は、おさんが全部吐きだすことに決めたのかと思いました。著者の中にあるもの、というと何か違う気がするのだけれど、とにかく今、胸(というよりは身体?)の深いところで燻っている何もかもを一旦全部アウトプットして、リセットでもするおつもりなのかと。そういう意味では少し重くて、あまりエンタメっぽくない気がしていました。少なくとも最初は。でも、途中からいつものおさん節が戻ってきて、ああ、やっぱりエンタメだなぁと(笑)。物語が動きだしてからは、読みやすくて、引きこまれて、けっきょくラストまで一気に読んでしまいました。

 冒頭、2回改稿されたということで、最初がどのような形だったのか、未確認で申し訳ないのですが、率直に言って、あまり成功しているとは思えない感じです。長いし、じれったいし、ひどくもったいぶっている。引きも弱い。冒頭で世界と設定をすべて説明しようとしているのか、読者を煙に巻こうとしているのか。映像ならアリだと思うんですよ。ゲームのオープニングとか、アニメーションとか。たぶんインサート形式でサブリミナルも利用して、1分もあれば見せられるし、強烈な印象も残せる。でも、読みものの場合、これだと読者を飽きさせてしまう。きっと先まで読んでもらえない。なくてもいいということではなく、例えば主人公「僕」が感じたことや考えていることはとりあえず置いておいて、見たものだけに絞るとか、もっと予感を感じさせるような、簡潔な見せ方をした方がよいのではないかなと思いました。だって、ここで読むのをやめられてしまったら、あまりにもったいなさすぎる。

 内容や物語は、私の乏しい読解力と想像力ですべて理解できたとはとうてい思えないけれど、読んでしまえば読者のもの、ということであれば、私なりの解釈ではありますが、なんだかいろいろ、わかるような気はしました。脳内で勝手に(主にそういうものとして)辻褄あわせをしていく過程はパズルのようで、なかなか楽しかったです。というか、記憶系、心理系、人格系、狂気系、トラウマ系、SM系(笑)は、いい感じに私の好みにハマりました。主人公の狂気について言えば、前半は「ああ、この主人公、本当に狂ってるな」感が出ていたのですが、後半はそれが少し薄れてしまって、事件解決ものというか、真相究明ものというか、平たく言えばただの人助け?世直し?(ちょっと違う)みたいになってしまったところが残念です。

 イメージとしては、「夢」を「見せられている」感じでした。けっこう何でもアリというか、いろんな要素をとりあえずぶち込んだようにも思えて、それが悪いということではなく、ただ、すべてに脈絡のなさみたいなものが感じられました。反面、それも狙いなのかなという気も。とりとめがなくて、AがあってBがあるというタイムオーダーやコーズ・アンド・エフェクトをすべて無視したような、AとBが独立して同時に存在しているような、まさにバーチャルな断片の集まり。そのとっちらかった感じが逆に味だったりもして、私はけっこう好きかなと。

 一番気になったのは、ほかの方も似たようなことを仰っていましたが、そのときどきで色味や濃度にムラがあるように思えた点。例えば文体だったり、トーンだったり、キャラクターそのものだったり。短時間で書かれたものではないでしょうから、おさんのそのときどきの気分や心境や、あるいは時間経過などが現れているのかなと。得てして起こりうることですが、わりと振幅が大きかったので、なんというか、そういう「ばらつき」が目につくたび、これが「書かれたもの」であることが思いだされて、ちょっと熱が冷めてしまうような気がしました。

 全体として、おさんが読者をどれくらい意識されていたのかはわかりませんけれど、読者をというよりは、登場人物を弄ぶのを、おさん自身が楽しまれているような感じがしました。だから、一番サディスティックなのはおさんかなと(笑)。見知った顔や見知った風景、過去作を読んでいれば思わずにやりとしてしまうような演出、読者サービスなのか、そもそも集大成なのか、意図はわからないけれど、そんなことを訊ねたらきっとおさんに、「君は、いつから僕に説明を求められるほど偉くなったんだい」と言われてしまいそうなので(笑)、まあ、適当に自分で考えます。この台詞、ホント最高ですね。超好きかも。

 公募投稿予定ということですので、最後に皆さん同様、誤字脱字のご報告をさせていただきます。
・外に世界があるのとさえ
・始めまして
・肉体が生存するするための
・下か振り上げられる鋼の塊
・義母の連れ御達と
・声を掛けたのは、これが始めてだった
・客人が迷て
・あたしは近寄っても

 総じて楽しい読書でした。作中の世界に呑みこまれたような感じで、一夜明けた今も、空間を漂っているような、あるいは彼らの空間が近くにあるような、そんな気がします。校正、投稿、審査、ご健闘をお祈りします。
No.3  楠山歳幸  評価:30点  ■2010-12-16 23:55  ID:sTN9Yl0gdCk
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 拝読しました。

 独特の文章や描写、哲学的な表現、おさんの世界がとても良かったです。
 厭世的(?)な主人公にも魅力を感じました。
 僕は読解力に乏しいため、場面の切り替えについて行けず内容をきちんと理解してないのですが、それでも楽しめました。

 拙い感想ですみません。
No.2  内田 傾  評価:40点  ■2010-12-14 01:24  ID:IADj8zQIHSg
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拝読させていただきました。

たぶん初稿ですので、まだまだこれから詰められるのだろうと思いますが、ところどころ描写の濃度が不均一な感じがして、ぼくは戸惑いました。
夢と現実が、というかもうひと潜りすると、夢の中の現実と夢の中の夢が(もっともっと潜ると夢の中の現実の中の夢にもなってる!)、かなり複雑なイレコ状になっていて、その濃淡が描写にもあらわれているのかもしれない、とも思うのですが、おさんの作品としてはとても読みづらい、と感じました。

主題は、『名前』だったり、名を含めた記号だったり、記号的なものに縛られている肉体を持つ実存だったり、可能世界?的なことですかね。
感想自体がややこしくなるのは本意ではないので、汲み取ってもらいたいのですが、
『他の誰かに代わったり、人間でない『もの』として所有されていた状態からの脱却だとかが、この世界観の中でがっちりと主題として立ち上がっている』というのは、すごく感じました。
『僕』自体もじつにあやふやな存在として描かれている。
あとメタ次元からの言及もこの作品の世界観とも呼応していると感じました。
ただ、以前にも感じたことですが(お伝えしたことですが)、説明的な文章と描写的な文章をおそらくはまとめすぎている気がしてしかたがないです。とくに導入部分が少し重く感じました。

総じて、ぼくには難しすぎました。
読みながら意図がちゃんとつかめていないなーと感じることが多かったです。
たとえば、過去的な世界に行く前と行ったあとで、かおの漢字が変わっている意図、だとか。
貌→顔

どういう意図だったのか教えてほしいけど、おさんにこう言われそう^^;

 「君は、いつから僕に説明を求められるほど偉くなったんだい」

このたびはどうもありがとうございました!

追記。
公募に出される作品とのことなので、いつもはしない誤字チェック。
HALさんも挙げられてたので、それ以外でぼくが気づいたもの。
投稿までに変更してくださいませ!

>僕は、どちらでもかまわないだけど
>口を開けたり閉じた入りするも、
>自分の頚の上にある、東部の前面を占める
>エリー・ウォンとは小さい頃か仲良しで
>すんわち、
No.1  HAL  評価:30点  ■2010-12-12 23:31  ID:.waOH.tC6M.
PASS 編集 削除
 拝読しました。
 冒頭のねっとりした感じの文章がすごく好きです。あと要所要所で、短文をもってきて強調する、その呼吸が効果的で、すごいなと思いました。
> 意識が朦朧とする。
> 僕は、立っている。
 ……のようなところ。
 ほかにも、文章の繰り返しかたとか、引き込みであるとか、キャラクターの容姿の描写なども端的かつ印象深くて、なにかと羨ましく、見習いたいところがたくさんありました。いつも勉強させていただいています。

 文章面では、いまさらわたしのようなものが何も指摘できるようなことはないので、そのほかで気になったことを、つらつらと。いつものとおり、偏った、たいした役にも立たない意見が目立つかと思いますが(汗)、ご主義にあわれない部分は、どうか広いお心で聞き流していただければと思います。

 指摘というか、好みの問題なのですが、わたしは作中に作者さんの意思が見えかくれしていたりする(と感じる)と、とっさに醒めて拒絶反応がでるという、面倒くさい読者でして(汗)
 もちろんそういう書き方が、小説の手法としてアリとかナシとかいうようなことではなくて、ただ個人的には、前半の万能感というのか、メタフィクション的なにおいというか、作品世界が作者の思いのままになる感みたいなものが、ちょっと、苦手な感じでした。それが邪魔して、うまく作品世界にのめりこみきれないというか、陶酔しきれないというか……。
 もちろん、そういうぶぶんを味として出していこうとされているのであれば、本当によけいな意見なのですけれど。

 中盤以降、入れ替わった二人の女の過去の悲劇のくだりから、ぐっと面白くなって(というのも不謹慎かもですが)、ぐいぐい引き込まれるように読みました。切ないです。エグい描写も多々あるのだけれど、せつなさのほうが勝って、共感し、感情移入しながら読みました。

 あと、公募用とのこと。電撃文庫って少し前のころに、しかも一部の作家さんしか読んでいないので、レーベルの求める読者層にあうのかどうか、ちゃんと理解できている自信はあまりないのですが、わたしの知っている電撃からすると、やや性的描写が生々しすぎるのではないか、という印象があったです。なんて、参考意見にもならないかもしれませんが……(汗)

 あとは、発見した誤字がいくつかありましたので、校正の一助になればということで、書き留めておきますね。

>まぁ僕のとことはいい。
>ある一能可の
>人間になれきれない
>エリー・ウォンとは小さい頃か仲良しで、
>あたしは、メアリ・アンとして行き直すことにした。
>他に出来るのことがないのだから

 不思議な世界観と美しい文章、楽しませていただきました。
 そして豪快に自分の駄文を棚上げして、恐れ多くも好き勝手なことばかり書いてしまいました(大汗)どうか寛大なお心でご容赦くださいますよう。
総レス数 9  合計 220

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