無題
 恵子とふたりで夕飯を食べ、風呂にも入り、ソファに凭れながらテレビをつけると、友人から借りっぱなしになっている文庫本をひらき、ぼうっと眺めながら考える。カレイの煮つけはうまかった。魚を口にするのがそもそもひさしぶりだったし、ぶりぶりとした身に、濃いめの、甘すぎない煮汁が滲みていた。白身の魚はぜんたいに好物だが、きょうのはほんとうにうまかった。
 テレビが載ったラックの脇におかれた時計が十時間近を指し示し、テレビからは気の抜けたサックスがメインのニュース番組のテーマが流れ出す。
「ちょっと」
 と恵子が声をかけ
「テレビみるか、本読むかどっちかにしなさいよ」
「ああ、ごめん」
「ほんとにもう。なに考えてたらそうなるのさ」
「いや、カレイの煮つけ、うまかったなあって」
 いぶかしげな顔つきをみせると、恵子は人を小ばかにしたようなため息をついて
「はいはい。おじょうず」
 といった。
「いやあ……お世辞じゃなくて……」
「料理もろくにできないのにねえ」
「ははは。おはずかしい」
 いいながら、ソファの右隣に腰を下ろす。
「さしすせそ、って、あるでしょう?」
「なにが? あかさたな?」
「……料理の」
「ああ、あるね」
 またひとつ、あわれむような、さげすむような声と眼で、恵子はいう。
「いってみてよ。さ、し、す、せ、そ」
「さ、は、砂糖」
「それから」
「し、は……し……塩」
「そうね」
「す、は、酢。お酢。それから、せ……」
「せ、は?」
「なんだっけ。せ、せ。わかんないな……。そ、は……」
 いいよどんで、恵子の顔をみた。じいっとこちらをみて、口の端がうっすらと笑っている。
「そ、は?」と特別ゆっくり、恵子はいった。
「……わかんないなあ。おしえてよ」
「ソックスを脱ぎっぱなしにしない」
 ごめん、という間もなく、恵子はこちらの顔面に、洗濯機に入れそびれていた靴下をおしつけてくる。汗と、ほこりと、とにかくなにかきつい体臭やらなにやらが、すばやく鼻の奥に吸い込まれてしまい、頭がくらくらする。
 かたちばかりはもがいてみるが、恵子はいやにがっちりこちらを押さえ込んできて、うまくにげられない。腹のまんなかの、おもたい部分がぐるぐると鳴って、横隔膜かなにかが跳ねあがるのがわかった。口のなかにはひどく唾液が溜まる。
「せ、は? わかった? ねえ」
 靴下をおしつけたまま、すこし弾みかけた呼吸で、恵子がいう。
 わかんない、といおうとすると、ひらいた唇に臭いがとびこんできて、あわてて首をふる。
「わからない?」
 たしかめるように、恵子はなんどかくりかえした。わからない、というたび、右足の指先を、恵子はぐりぐりと踏みつけた。
「ほんとうにわかんないんだ。ばかね」
 押しつけられていた靴下が取り除けられて、おおきく息を吸って、顔をごしごしと袖でこすった。
 その様子をみながら恵子は
「せ、は……?」とまたきく。こころなしか、眼がおおきくみひらかれている気がする。
「せ、は……」
 うん。とため息のように恵子がいう。
 うん。という恵子の、左耳のあたりに、特別にほそい髪の毛が一本、ふわふわと浮いている。
 右手をそこへ持っていき、それを指にまきつけて
「せっくす、かな」
 力まかせに、ひっぱった。
端崎
2011年08月21日(日) 21時45分50秒 公開
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■作者からのメッセージ
別に上手いことなんて言えないけど三語 より

お題「サックス」「ソックス」「セックス」


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